魔女の本領
『江戸の読書会 会読の思想史』前田 勉 を読む!

会読

『江戸の読書会 会読の思想史』前田 勉


所々で評判になっていた本であるし、読書会というものにも興味があったので、読んでみた。完全な論文である。かなり堅苦しい。読書会の歴史的研究というよりは教育論・学校論の研究書と言った方が当っているかもしれない。キーワードとなっている「会読」というものに馴染みがなかったのであるが、江戸時代、学問の形態として「会読」は重要な位置を占めていた。その在り様に就いて詳しく分析されている。最も注目されるのは、会読における三つの原理である。相互コミュニケーション性、対等性、結社性として要約できる。江戸時代は正に確固たる身分制度のもとに在った。しかし藩校においても私塾においても、更には幕府の昌平坂学問所においても「会読」は行われた。その「場」においては、入門者は「父」「師」「君」という「属性」から自由になった。これによって、年齢の大小にかかわらず、それ以前、誰から学び、どの程度学んだという実績も関係なく、さらに武士や庶民の別なく、自分の実力のみが試されるようになる。こうした場が現実の身分制度の社会とは異なる空間だった。その「会読」の場では自主的にお互いに学び合うことが基本であり、上からの知識の刷り込みではなかった。西洋的に言えばディベートによる知識の身体化とでも言えるものであった。身分制の制約に中での学問は身分の解放もたらすものでなかったが故に、純粋究極の学問のための学問であり、遊戯性とも言えるものであった。時代を経るに従って、幾つかの藩校においては、激しい競争論理が学問への道義づけのために導入された。

しかしながら、興味深いのは、「会読」のいわばルールである。「虚心」という語で表現されているがそれは異質の他者を受け入れる態度であり、自分勝手さを抑制し、異なる「相手」を寛容するような徳を身につける事。すなわち自己の偏見をかたくなに主張したり、他人の意見を抑圧するようなことはしない。そこに完璧な人格者になるための姿勢が求められた。

幕末の昌平坂学問所を例に取れば「会読」の場は「縁を離れて論じた」場と表現されていて、まさに血生臭い政治闘争から離れたアジールとしての無縁の場だったようだ。そこで学んだ遊学生たちは、自己を絶対視せずに相対化し、他者の異論を受け容れる精神の修養も可能だったのである。

また江戸時代後期には藩校が隆盛を極めたが、我々が思う以上に緩やかな組織で、他藩の留学生が横断的に学び合い、明治維新の思想的潮流を作り出した。吉田松陰の松下村塾もまた「会読」によって学んだ若者によって身分制度から自由な運動体が生まれた。

というように、江戸期の読書会は静かに読書をする集まりではなく、喧々諤々の討論の場であったという興味深い視点が提示されている。その点では、非常に興味深い書籍であるが、「会読」というキーワードを万能の力としてあれもこれもが並列的に優れた教育手段であったという評価には疑問が残った。また江戸期の「会読」は高等な学問の場であり、それが遊びの要素があったとはいえ、庶民の文化、教育とはあまりにもかけ離れた世界である点に違和感を感じた。

魔女:加藤恵子