学魔の本函
『靖国』坪内祐三 を読む!

靖国

『靖国』坪内祐三


学魔が読めとわめいていたので、ずいぶん前に読んではいたが、ここのところ世情の右傾化が怪しい雰囲気なので、改めて読み直した。

学魔の目の付けどころは、この本の一部なのである。みなさんは靖国神社に銅像が立っているのに気がつかれただろうか。私も指摘されるまでよく知らなかった。実はあの銅像は大村益次郎で、問題は彼が左手に持っているのが双眼鏡なのである。その由来については、維新の時、上野の山の戦いを江戸城西の丸の櫓の上から見ていた物だと言う指摘もある。しかし、坪内は更に踏み込んで、九段の坂上の地に建てた銅像は、東京の下町を見降ろす形になり、すなわち都市構造の中でのパノプティコンとしての意味での双眼鏡であるという指摘であり、ここを学魔高山がかっていたのである。

さてこの本なのだが、衝撃的な事実がいくつも出てくる。坪内自身が驚き、靖国を書く契機ともなったことであるが、靖国神社の最も心臓部であったであろう御魂を招き寄せる斎場である招魂斎場がなんと駐車場になっているという。なぜだという疑問から本書は発している。それやこれやで、坪内はこの本のために右翼に暴行を受けているのである。靖国神社とは、古来の神社ではない。始まりは、慶応4年(1868)6月2日、「江戸城西丸大広間上段の間に神座を設け、官軍戦没者のための招魂祭を行なった」ことにある。ポイントとなるのは、この招魂祭があくまで、「官軍」戦没者のためのものであったことだ。「賊軍」の戦没者は、まったく数に入っていない。それらは文字道り、邪霊だったのである。

そのような招魂社が九段の坂の上に移設されたのは、九段という場に意味がある。初めは上野の山に建てる計画があったが、彰義隊の人びとが数多く命を落とした上野の山は、祀られることのない、祀ってはいけない、「邪霊」のさ迷う「亡魂の地」だった。それに対して、九段の地は土地に刻みこまれた記憶という点では、ほとんど無に等しかった。地霊的なものは何もなかった。つまり、江戸=東京という広大な空間の中で、これからの未来に向かって、新たな地霊を人工的に仕込ませて行くのに最適の空間だったということである。さらに地形的に、山の手・下町の境界の山の手側にある高台の上から下町を睥睨しているという霊的な意味でも最適なロケーションなのである。

しかし招魂社(後の靖国神社)は細かく調べて行くと、実は始めから宗教施設というよりは、モダンな娯楽施設として庶民受けしていたことがわかるのである。そこには相撲場があり、競馬場があり、サーカスが開かれ、民衆に開かれたいわばアムーズメントパークであった。

本書は二葉亭四迷や広津和郎、宇野浩二等の文学作品に現れる九段坂と靖国神社の意味にも触れている。それはほとんど宗教性とは無関係の祝祭空間だけで語られていたりする。場の意味性ということで、坪内は九段坂周辺の建造物が実は非常に近代的なデザインの物であったことに注目している。どうも我々は靖国神社を古色蒼然たるものと捉えがちだが、まったくの逆で、歴史がないだけに、合理的で、かつ近代的な精神構造で成り立っているのだという点をみのがしがちだという点である。その系譜は実は戦後にまでおよびは昭和三六年四月二三日には、力道山の奉納プロレスが行われ大観衆を集めた。これも正確に言えばその四〇年前に、靖国神社相撲場でプロレスの試合が行われていたのだというから、靖国神社の見世物性は一貫していると言わなければならないだろう。

その靖国神社が何故8月15日の首相公式参拝をめぐるゴタゴタがおきているのかであるが、坪内はそもそも靖国神社に祀られているのは第二次世界大戦の戦死者だけではない。つまり明治維新期から近代国家の犠牲になった戦死者が合祀されているのである。にもかかわらず8月15日に参拝することの意味は皆無である。本来ならば春・秋の大祭に首相が参拝せずに、8月15日にこだわることの問題性を指摘している。私もこの点には考えが及ばなかった。

政治的な問題はさておいて、本書は近代化というものに対する大衆の祝祭的な心性について見事に切り取った本として楽しめる。ぜひ一読をお勧めします。

魔女:加藤恵子