魔女の本領
ラテンアメリカ文学の新しい波…

アイラ

『わたしの物語』セサル・アイラ


ここ数年ラテンアメリカ文学に光があたっている。それは、マルケスに代表される魔術的リアリズムとは違った文脈の新しいスタイルである。セサル・アイラもその一人で多数の著作がありながら、日本に紹介されことがなかったアルゼンチンの作家である。多くは短編・中編を書いていて、この作品が日本では初めての単行本である。(幾つかはユリイカに翻訳され、掲載された)

さて、『わたしの物語』は原文では「わたしがどのように修道女になったか」というのであるが、一貫して主人公の視点から自らを語っていて、その主人公が6歳の子供であるが、女の子か男の子なのかが分からないのだ。周囲は男の子として見ているが、自分は女の子であると認識している。その子供が、父親に連れられてアイスクリーム屋でイチゴアイスを食べるのだが、これが腐っていて食べられない。父親はそれを認めないのだが、やがて本当に腐っていたことに気づいた父親がアイスクリーム屋を殺してしまうところから始まる。主人公は病院に入院し、生死をさまよう間に夢や幻覚を見る。この時点で主人公の語りは事実なのか、夢の話なのかが交錯して来る。やがて退院して遅れて入学した小学校で、自らが字が読めないということを認識する。ある日、トイレのいたずら書きをなぞってノートに書いて家に帰るのだが、そのいたずら書きはどの国も共通だが母親を侮辱するいたずら書きで、性的な意味がある。母親はそれをとがめて学校に抗議に来るのだが、対応した担当の女性教員の方が錯乱してしまい、その後のアイラはその教員に怪物扱いされ、無視されることになる。しかし、その事件でアイラは文字というものに意味があること知ることになる。母親と尋ねた父親が収容されている刑務所で迷子になり、神秘体験をして、自分は囚人の守護天使だと思ったりする。学校では透明人間のように無視され、所謂発達障害の子供のようで、学業を理解することが出来ず、帰宅すると、ラジオを聞くだけの日々であるが、ラジオ番組を完全に記憶して繰り返すことが出来たりする。やがて、同じ貧民の家庭の一才上の男の子と友だちになり、その男の子から仮装を教わる。仮装人生の芽生えであるが、ここでも女の子として仮装したのか、男の子として仮装したのかが明確ではないが、主人公は自分は初めて女の子になったとの自覚を持つ。

それらのあれこれに、やがて関心が失せた時、独り遊びとして母親を尾行するという遊びに没頭するのだが、町に子供を誘拐する吸血鬼のうわさが流れる。主人公はある日、母親を尾行している時、女に誘拐される。主人公は自ら従ったように振る舞うのだが、その女は、父親が殺したあのアイスクリーム屋の未亡人で、その復讐のために、なんとアイスクリーム屋の廃墟で、アイスクリームの撹拌機のなかにぶち込まれて、イチゴアイスのピンクの氷の中で死んでしまうのである。さて、ここでこの原作タイトルが意味するものは何なのだろうか。主人公は修道女になることはできないではないか。しかしこの子供は男の子でありながら女の子となり、夢見ること、幻視すること、孤独に生きること、生贄にされること、そう聖なる存在となって終わるという点で修道女になったのかもしれない。しかし、実はそんなに単純ではないらしい、解説に依ると、修道女と言う語に仕掛けがあるらしい。これ以上は読んでのお楽しみに。新しいラテンアメリカ文学をお楽しみください。

魔女:加藤恵子