魔女の本領
『文学部唯野教授』筒井康隆をよむ…

文学部唯野教授

『文学部唯野教授 』筒井康隆


発売当時(1990年)も読んでいるのであるが、先日文庫本になっているのを見つけて、またまた読んでしまった。

主人公唯野教授は当時もあいつだという噂が飛び交っていたし、当時私の職場は大学であったから、大学内部の権力構造やら、昇進のシステムやら、教員の移動のシステムやらがあまりにもリアルで、これは確実に後ろに誰かいると思ったものである。例えば、教員が他大学に転出する際に、割愛願と云う文書が出されるなどと云うことは、一般社会では考えられないと思うのだ。つまり出る方の大学は「こんな大切な人材を譲るのはしぶしぶなのだと」いう姿勢を相手方の、つまり移る先に示す文書なのである。あほらしいが事実である。これが教授会を通らない場合は自己都合の退職をしないと転出できないのである。また、昇進をめぐっての生臭い話はいやというほど見たか。ある時の新人教授採用の際、教授会の前日になり、当人は精神障害者だという噂を流されて、撤回したと言うのも見ている。そんな魔界である大学を舞台に、唯野教授のグロテスクな日常と見事な講義が小説に混在している。これこそメタ・フィクションだろう。そもそも、目次が凄い。印象批評、新批評、ロシア・フォルマリズム、現象学、解釈学、受容理論、記号論、構造主義、ポスト構造主義となっているのであるから。文学理論の総ざらいで、私にはそれを読みとる力は無いが、ほぼ正確のようで、ただ、茶化して描かれているように見えるから、学界からは批判されたようだ。正確と認め「気にするな。」と励ましたのが大江健三郎、ソシュール記号論の大御所丸山圭三郎、これを機に友だちになったのが柳瀬尚紀だというのが面白い。この本の前にも文壇をシュールに描いた「虚構船団」でも、筒井康隆は猛反発されていたから、彼にとっては屁でもないことであったろう。しかし、あちこち当時の大学の内情が出てくる。ドイツ文学の学生がゼロになったというのは当時東大の柴田翔のところのことだし、「野うさぎのようにジャーナリズムに出過ぎて」採用されなかったとは勿論、「野兎のはしり」の中沢新一の東大不採用事件のことである。評論家空桶谷弁人は柄谷行人のこと。柄谷については、大学で冷遇されている一般教養の教員として登場するが、実は抜群の英語の出来る人物と評している。ともかく、大学内部のばかばかしさが滑稽にかかれていて、笑わせられる。私たちの世代は大学解体、アカデミズム粉砕を叫んだのであるが、結果は以前よりより陰湿に、強固になったのにはとても心が痛む。そして、現在の大学はどうだろうか、教養学科は廃止され、国際なんたらかんたらで、英語が教養・学力の基準となっては、世界は英語で成り立っているわけではないから、ますます知の体系から大学ははなれていっている。唯野教授の叡知はいまや風前のともしびかもしれない。ともかく筒井康隆恐るべしの本なのである。

魔女:加藤恵子