魔女の本領
ヨーロッパの精神の根っこを探る…

マグナグラエキア

『マグナ・グラエキア ギリシア的南部イタリア遍歴』G・R・ホッケ


『マグナ・グラエキア ギリシア的南部イタリア遍歴』G・R・ホッケ 種村季弘訳 を読む。知る人ぞ知る、ホッケの小説なのである。しかし、フィクションではあるけれども、どこまでもホッケの思想小説なのである。

マグナ・グラエキアとは、大ギリシアのことで、紀元前8世紀頃から始まったギリシア人の海外植民活動の結果、とりわけ南イタリアとシチリアに創設された植民市がそう呼ばれた。この地をドイツの青年マンフレートが遍歴する。その紀行文という態をとった小説である。もちろんマンフレートはホッケその人であるのは明らかだ。マンフレートはかつて栄え今は廃墟となったり水底に沈んだ地や、あるいは古代や中世の外観を残しつつ近代化が進んだ都市をへめぐって、その地の古層を呼び起こしながらヨーロッパの根とは何かを考えるのである。マンフレートの訪ねる土地の文化的記憶を呼び起こし、記述することそれがこの小説の主題である。ホッケが何故、南イタリアに赴いたか、それは、第二次世界大戦により、精神的に荒廃したヨーロッパの再構築の芽をギリシア植民市に見出したいと願ったからであると思われる。この地ではキリスト教教会のマリア崇拝の表皮のましたに古代の魔術的信仰が共存しているし、現代イタリア語の真中に古代ギリシア語が生きていて、それは地名や都市の名前として、生活圏に生きづいているのである。旅を続けるうちに、幾つもの発掘遺跡に出会うし、しかし発掘品はガラクタのように放置されてもいる。しかし、そのような物質としての古代ギリシアが問題なのではない、ホッケが探り出そうとしたのは、その地の精神なのである。小説中最も長い章はC伯爵成る人物との会話の章である(3章ある)。その中心的問題は、ピュタゴラス教徒の存在である。彼らは植民都市が悪徳の頂点に達したとき、前536年にサモスからクロトンにやってきて、シュバリスに道徳的改革を導入しようと試みた。彼らはそれを感傷的な、あるいは抽象的な道徳的お説教を通じてやったのではない。彼らはギリシアの原住民たるペラスゴイ人からマグナ・グラエキアの英雄時代にいたるまで、あらゆる思想、あらゆる感性を担う根底を形成してきた偉大な神話的形象に向かおうとしました。ピュタゴラス教徒たちは一つの結社にまとまっていて、結社は、きわめて現実主義的なあり方で、彼らの倫理的諸原則を精神的に規定する天体的な調和(ハルモニア)(=音楽)を規範にしていました。この結社は大ギリシアのあらゆる都市に見られ、真の奇蹟をはたらいていて生命感情を深化させ。この結社がなければ、おそらくあらゆる都市がすみやかにシュバリスから離反していた。またどうやらプラトンもピュタゴラス思想を研究するために大ギリシアの諸都市を歴訪していたようだ。このピュタゴラスの結社は後々にいたるまで影響を及ぼしたのである。プラトン哲学にはピュタゴラスの教説のすくなからぬ影響が認められる。

「古代世界の神話は、理想化し考えられたロマンティックな幻像とだけ見なしてはならない。神話を、理想的な超現実として見るのではなく、現実における人間と神の遭遇と見る術(すべ)をまなばなければならない」とC伯爵は語る。

いわばギリシア世界の精神的最下層、その無意識、その植物的生命圏、その母性的基盤。ギリシア世界の明晰さは意志から育ってきたのではない。渾沌とした地下世界から、人を脅かす境界の混じり合いから生まれ育ってきたのだ。

そして、更にその古層にあるオルペウス教を呼び起こすのである。ホッケがそのまま顔を出すのであるが、こう書くのである。

「もっとも起源に近いところではしかしオペウス教の影響は、タラスからレギオンにかけての地域に育ったデオニュソス祭祀のうちに行使される。ディオニュソス祭祀こそは、紺碧の空という純粋存在と原世界めいた土地との間に住み、建設し計画する秩序にひたすら営々孜々として自ら努めたこの海岸の人びとを呪縛したのである。今日もなおそうであるように。これまたヨーロッパにとって神話的意識の問題なのだ!」

さらに、C伯爵の語りとして次のように書く。

「ヨーロッパ精神の基盤形成にとってその影響がいかに実り多かったかがわかってきました。プラトンがピュタゴラスに負うところは大ですが、そればかりではありません。ピュタゴラスは、いやしくも私が宗教的気分と言いたいものに対する、新しい前提を創り出したのです。それによってこそ南部イタリアのギリシア人の形而上学と神秘学と宗教に対する特別の敵性が高度の例においてあらかじめ形成され、その結果ヨーロッパ精神の決定的な世俗的時間が可能になったのでした」と。

このようなギリシアの精神世界から導かれたホッケの思想世界は当然のことながら、マニエリスムに行きつくのであるが、これについての記載は僅かに1ヵ所である。

「識者たちが認めるところでは、これによって神殿建築の純粋に「古典的」な理念がゆらぎだしたという。では謎めいたマニエリスムか?ここで私たちは古典主義とマニエリスムとの高度の総合命題の一つと関わっているのだ!すなわち緊張に満ちた完成の理念に由来する存在の芸術と!対称(シンメトリー)が優位を占める。が、ときにほんのわずかながらの非対称(ディスメトリー)、ポリュクレイトスのいわゆるドラマティックな補完物を形作る。したがって問題は、断じてたんに技術的に限界のある不純性なのではない。統計的な不完全の問題でもなければ、その世紀の間にこうした建築物が「移設」された結果というわけでもない。バエストゥムの神殿は、一つの超古典主義的にして超マニエリスム的な芸術の石造による肖像(にすがた)なのだ。ある神話的秘義、あるオルペウス教的秘儀の石造の証人なのだ」。

このようにして、マンフレートの旅は終わり、ヨーロッパへの帰還がなされるのであるが、印象的なエピソードが描かれるのである。最後の宿となる一膳飯屋の娘の名前がコンチェッタ、即ちコンチェット(綺想)、コンチェティズモ(綺想態)というマニエリスムの基本概念へといざなうのである。この娘はマンフレートと一夜妻を思わせるのである。その娘に示唆されて辿った先の山の上にはマリアの教会があるのであるが、これはキリスト以前の魔術的神話の神である。訳者種村はあとがきで、この娘を「私たちの身近でなら、白山姫神の地上の化身として現象しながらはかなくきえてゆく泉鏡花の女をおもわせないでもない」と書いている。

さて、ホッケも、さらにいえばフランセス・イエイツも、自らの研究の指標に、混乱したヨーロッパの統合の指針を探ると言う点が強く見てとれる。顧みて、日本の研究者に、歴史的な日本の使命をいささかなりとも頭に置いている研究者が居るのだろうか。とても、心細いかぎりである。ホッケの論文を読んだ人も、まだ読んでいない人も、得るところ大な小説です。

魔女:加藤恵子