血脈の本函
笑う芸術。狂言とは何だ..

狂言兄弟

 

 

『狂言兄弟 千作・千之丞の87年』茂山千作・茂山千之丞 宮辻政夫編


本書は毎日新聞に連載された狂言の茂山兄弟の聞き書きに加筆された物だそうであるが、本年亡くなられた千作の生前には出版が間に合わなかった。

芸談もあることはあるが、多くは今は芸として認知されている狂言の戦前から戦後そして、現在に至る長い長い千作・千之丞の生の歴史と云っていい。そしてこの兄弟が実に性格も芸風も際立って異なっていながら、兄弟ともに自己の性格を芸風に活かし高めて行く姿と、第二次世界大戦に翻弄され、狂言どころではなかった文化状況の中で努力を怠りなく前進していった姿に、ある種の感動を覚えた。宮辻はこれを「つかず離れず。天衣無縫の兄は、舞台に立つだけで笑いをとり、理論派の弟は、自らを演出して芸の枠を広げた。ふたりに通じるのは苦労を厭わない心と狂言への愛」と書いている。

兄は腕白ではあったが運動が苦手、弟は勉強が好きで優秀であり、意外にも肉体的にも俊敏であったそうだ。戦前、子ども時代は兄弟ともに祖父、父に鍛えられ、幼少から舞台に出た。しかしその教育は厳しく、舞台をしくじれば鏡の間で殴られた。教育現場での暴力が昨今云々されるが、彼らの受けた暴力は真の教育(芸の伝授)だったことで、見事な教育の実を結んだと言う。つまり、さらに芸の習熟に励んだということにおいて。

戦争時、千作は海軍に召集された。巡洋艦「利根」で真珠湾攻撃に参加したと言う。その後南太平洋に転戦した。ミッドウェーで大敗する直前陸上勤務に転勤となり、生き延びた。千之丞は大阪商大へ進んだ。入学後も軍隊での非戦闘員(主計士官)になろうと死にもの狂いで勉強をした。千之丞は「命が惜しいというのはすごいことですな」と語っている。そして新京(現長春)にあった陸軍経理学校に入学し、こちらも奇跡的内地配属になった。多くは関東軍に配属され、ソ連の介入時に壊滅した。実に当時の生死は紙一重であったことが分かる。

戦後の苦労は生き残った国民すべて共通ではあったが、千作は奥さんが実家の帯やの布を融通してもらい千作は帯の下絵を書き、奥さんは手仕事で食いつないだ。千之丞は何と闇屋で大儲けしたり、つかまったりしている。戦後能舞台など絶無の時代、学校回りをして狂言を伝承した。なかなか感動的な話もある。娯楽の少なかった僻地の島に行き学校で狂言を演じ島を回って帰る時になり、帰る船を大ぜいが見送りに来たそうで、泣けたと書いている。その後この学校回りは、現在まで続けられているのだそうだが、その子供たちの反応からとても重要な教育の現場の状況を読み取ることが出来る。すなわち、荒れた子供たちの時代、舞台から千作が怒鳴りつけたりしながら、茶髪で挑発的な態度の子供たちに対峙したが、彼らは真剣な芸に実は純粋に反応して、笑いこけたのだそうだ。ところが近年の子供たちは、管理されてしまい、大人しいが何の感動も体で現すことがないと言う。非常に気になることである。千作・千之丞は戦後、能の狭い世界から歌舞伎や新劇の舞台に立つことになるが、これは当時の閉鎖的な能学協会から脱退を迫られたが、茂山家が狂言方としていなくなれば能は成立しなくなり、うやむやになったそうであるが、武智鉄二の影響は大きかったようだ。千之丞の方は「夕鶴」の与ひょうを514回も演じたそうで、多分私もそれを見ているはずだ。

若手への注文は厳しいものがある。狂言の語りは当然古語なのだが、それを身につけて自分の台詞が古語として口を衝いて出なければならないといっている。つまり台詞を暗記して演じればいいのではない。台詞が古語でかつ現代語でなくてはならないという厳しいものである。「なんとか候」というような古語、あれを現代語と同じように喋るのだと語っている。また、若手の型が崩れていると言う指摘もされている。「狂言の動きは全部、舞やないといけない」ともいっている。また「古典芸能の役者っていうのは、言語の解釈を正確にしなければいけない」。わからなければしらべるのだそうだ。当然とは言いながら、私たちも、古典を等閑にし、わからなければ斜めに読む。こんなことでは古典芸能を見る資格はないだろう。

とても面白かったのは千之丞が生前葬を行なったのだそうだ、そのユーモアとそれに応じた人々の粋な姿がとても楽しい。ここだけ読んでも現代狂言になるかもしれない。

千作は文化勲章を狂言としては初めて受けた。兄弟は既に亡くなられたが、狂言と云う日本の芸能に欠くべからざる芸能を次世代につなげた功績は大であろう。

魔女:加藤恵子