かぶく本箱
大川周明 アジアへのまなざし

大川周明4

 

●大川周明、たくさんのわたし

本厚木にある山十邸という古民家がとても素敵で、ここで時を過ごしてみたいと思った。聞けば大川周明終焉の地という。ぎょぎょ。いちおう自称歴女なので名前だけは知っていたが、この名には得体の知れない暗幕がかかっていて、これまであまりお近づきになれなかった。そもそも、容貌がコワイのだ。この眼つきだから軍人だと思いこんでいた。

このご縁に生涯を追ってみようと、手探りながら関連本を紐解く。事典にはアジア主義者、国家主義者、右翼思想家、ファシストとある。これもコワイ。その上、学者、研究者、宗教学者、翻訳者、編集者、文筆家、教育者、そしてテロリスト、結社活動者という「たくさんのわたし」を持つ人だった。シュタイナーを日本への初めて紹介したのも彼だ。

数多くの著作のひとつを原文を読んだとき、名調子の文章構成と、それ以上に際立つ熱いモードに驚いた。それまでの及び腰から前のめりに位置が変わった。とてもひとまとめに述べられる人物ではないので、今の段階ではコラージュとしてメモを貼っておこうと思う。

・大川周明(1886~1957)。山形県酒田市出身。実家は代々医師の家系。幼少から直情怪行、並外れて長身(成人後180cm)。庄内藩の西郷隆盛への敬愛もあり、「敬天愛人」は周明の生涯の指針。熊本五高に進み、横井小楠、徳富蘇峰、徳富蘆花からも影響を受けた。

 熊本でますます発火しやすくなったのかしら…私は酒田出身者を過去に3人知っているけれど、みな彫りが深く派手な顔つき、性格もラテン系。「東北」のイメージからはほど遠いが、「西の堺、東の酒田」の港町なので皆がそんな感じ、とのこと。

・修養的な下宿生活で耕作や勉学、礼儀作法を叩きこまれたりで、少年時代から社会主義的な思想に進んだとある。当時は格差拡大など、問題噴出の時代。東大入学後神経衰弱となり、肺結核で1年の休学。内面的精神世界に沈潜し、イスラム教や西洋哲学を探究する。その後、儒教とキリスト教が一体となった信仰、「道会」に入会。

 要は頭が良すぎてストイックな人だったのだろう。

・卒業後は世俗に背を向け英語講師、参謀本部のドイツ語翻訳などを行いながら宗教学者を目指す。歴代天皇の伝記編集を依頼されて『古事記』『日本書紀』なども紐解くうちに、「最も神聖なる仕事は大和魂の発展長養に他ならず」と思ったそうだ。日本回帰により、「国民的生活の中心としての皇室」という天皇観が確立していく。

 次々にハマるタイプでもあったようだ…

大川周明

●大東亜戦争のイデオローグ

・崇拝する宗教・哲学の聖地としてのインドしか彼は知らなかったが、古本屋で見つけた1冊の本『新インド』で植民地下の悲惨な実態を知り、衝撃を受ける。『中村屋のボース』で知られる、インド革命家ボースや仲間のグプタを自宅に一時匿う。その縁で玄洋社の頭山満らと親密になる。また、来日中のフランス人哲学詩人リシャールの居候となりフランス語を習う。30歳を越える頃、書物で知った北一輝を上海に訪ね、浸食を忘れて語り合った二人はいよいよ昭和維新と国家改造に動き出していく。そして五・一五、二・二六事件のクーデターへ。

 次々に歴史上の有名人物が繋がって熱い同志となり加速していく進行は、遠い世界の映画のよう。誰もかれも志高く、出会えばすぐ結社になる。たいへんな時代背景がそうさせたのだろうなあ。

・佐藤優氏の『日米開戦の真実~大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』に掲載された「米英東亜侵略史」や「我らはなぜ大東亜戦を戦うのか」の原文は、素晴らしい格調。狂信的な皇国史観が延々続いたらコワイ…という事前の怖れは、あてがはずれた。内容は、リーマンショック後に頻出した資本主義批判を予告した如くの、欧米帝国主義や植民地支配を理論的に告発する言論だった。そして正真正銘、インドや中国の歴史風土への敬愛が込められていた。

 しかし。ここには、「欧米の植民地支配は批判しているのに、何故日本の満州国建国は積極的に支持するの?」という、素人でも浮かぶ破綻があるのです。

・大川周明自身が、日中印連携によるアジアの独立と平和の実現を本気で望んでいたことは、読みとれる。されど戦争は、その楽観をとうに超えた悲惨な形で終結した。彼は軍人ではなかったし戦争回避にも尽力したけれど、最後には自ら望んで大東亜戦争のイデオローグとなった。終戦の日の日記は「わが40年の興亜の努力も水泡に帰す」。

・A級戦犯容疑で逮捕されるが、精神障害で不起訴処分。入院中にコーラン翻訳を成就し、執筆を継続。最晩年は農村復興のために全国行脚。

 晩年の、枯淡の境地ながらも人間の叡智を謳い上げる文章を覗いて、決してめげない人でもあったのだろう、と思いたい自分に気付く。

 

●「正直と親切」、大川塾の青年たち

・一般的には忘れ去られた人だけれど、ここ数年著作が復刊されているようで、学者、評論家による関連本も多い。中島岳志氏の『中村屋のボース』は、頭山満らのアジア主義と大川周明のそれとの違いを立体的に解説してくれている。NHKのTV「日本人はなにを考えてきたのか 昭和維新の指導者~北一輝と大川周明~』も、理解を進めてくれた。

・けれども、今回の解読作業でいちばんリアルに響いて、大川周明について今後もしばらく思いを馳せようと思わせた本がある。去年出版された 玉居子精宏 著『アジア独立の夢―志を継いだ青年たちの物語』。大川周明が1938年に設立した、東亜経済調査局附属研究所(通称、大川塾)についてのノンフィクション。

大川塾は、周明の望んだ「アジアの独立」を担う人物育成を目指した学校だった。周明は「正直と親切」を繰り返し語り、アジアへの不遜な態度を諫め、現地人の「心の友」を作れと教えた。そんな浪漫の一方、プログラムは徹底した語学教育に経済やアジアの現状の講義、そして身体鍛練という実利的な内容だった。早くから井筒俊彦氏を認め、大川塾講師に招きイスラム研究に便宜を図ってもいた。

・卒業生たちは、ビルマ独立義勇軍などアジア各地の前線に派遣されていく。しかし戦争が始まり、「正直と親切」は日本の軍事戦略と相容れなくなっていく。「大川先生」の教えの通りアジア連帯の黒子になろうとして、やがて葛藤や落胆の中で、彼らが時代の波にのみ込まれていく過程が苦い。大川塾はスパイ養成学校とも誤解されて、塾生たちは戦後も苦労した。

 それでも、NHKの番組の中で登場した山十邸を訪れ涙ぐむ元塾生は、「大川先生」の教えを、翁となった今も忘れていなかった。塾生らは足繁く師を見舞ったという。昭和32年12月、周明はこの地で亡くなった。晩秋の山十邸で当時と同じ風景を眺めて、彼のまなざしを追ってみたいと思います。

山十邸

 山十邸より枯山水の庭を覗く

 リンクなどは、追っていたします。

by 牛丸