血脈の本函
どんな家にも語るべき歴史はある..

虹滅記

『虹滅記』足立巻一


どんな家にも、きっと語るべき祖父母や両親の歴史はある。それは時には喜劇であり悲劇であるかもしれないけれど。

『虹滅記(こうめつき)』足立巻一 を読む。

なんでこんな本が私の本棚にあったのか、全く分からないうえに、作者も知らず、題も分からず、不思議であった。

巻末に司馬遼太郎が「虹の誕生」というエッセーを書いているので、作者のことがいくぶん分かる。足立は戦前は教師をしていたが戦時中を生きながらえて、戦後京都で毎日新聞の子会社のような新聞社で記者をした。当時京都方面の文化人、猪木正道、桑原武夫、鶴見俊輔、多田道太郎、加藤秀俊らの知遇を得、「思想の科学」の有力メンバーとなり、また大阪では児童詩の雑誌「きりん」を興す発起人となり、さらにずーっと後に昭和49年(1974年)『やちまた』という作品をかいた人物なのだそうである。その足立が自分のおいたちと祖父、父、母、育ててくれた縁に繋がる人々をたどって書き記したまさに血脈の記録なのである。

足立は物ごころついた時は祖父に手を引かれ縁者に金の無心に放浪していた。その祖父は漢学者で敬亭と称していて、後に調べて見ると、どもりで全くの生活力のない偏屈な人物であった。その子(足立の父)菰川は貧困の中苦労して熊本高校から京都大学をでて、「二六新報」の花形論説記者となり対中国に対する明治政府の政策を鋭く批判し論陣を張って活躍しながら、僅か三三歳で盲腸炎から腹膜炎を起こし急死してしまう。その時足立は僅かに生後四カ月であった。その後母親は再婚して去り、祖母も死亡し、生活力のない祖父と放浪し、後に縁者である寺に預けられ成長した。足立はこの祖父と父親の生きた姿を跡ずけて行くのであるが、祖父と父との深い愛情と同志的結びつきを実感させたのが父親が書いた論文「幕末の長崎」というものであった。この論文は父菰川が出版することを強く望みながら果たせなかったあげく、その行くえが分からなかった物が、全くの偶然で古紙の中に出されていたのを見いだした人が縁者に届けてくれていて、足立が目にすることになった物であった。この論文は祖父の敬亭が清書した跡があり、ところどころに涙でかすれているのだそうである。この論文と共に、縁者の所に残されていた祖父敬亭の文章、更には敬亭が菰川に関するあらゆる文書を綴って残していた文章の中に、菰川の急死に際し、祖父敬亭がその死を「虹滅」と書き残したことから、本書の題がついているのである。

ともかく、戦争を経たのち明治期の有名人というわけでもない人物の事象を調べることがどれほど大変であったか、そして調べれば調べるほど、その誰もが決して幸せではなかったということが分かりながら、弛まず続けられた先祖さがしに不思議な感動が呼び起される。祖父敬亭からして両親は不明の貰われっ子である。菰川の下の弟は赤痢かチフスで急死している。足立が戸籍を調べて初めて知った叔父にあたる菰川のさらに下に居たらしい弟は生後すぐに養子に出され、それも点々として、養母の離婚、再婚と共に姓を変えていた。結局はその子孫、それも養子であるが、と足立は再開を果たしてはいる。また、戦前が家の継続に重点の置いた家族制度が強固であったとはいえ、子どもたちは、養子にだされるもの、養父母に養育されながらその養父母の離婚、再婚により流転を繰り返しながらも生きながらえていること、あるいは足立のようにその祖父の死により遠い親類の寺に引き取られ育てられたりしているにもかかわらず、実の親以上に養い親が身を入れて子供を大切にしている姿である。子孫が偶然名を成したから記録されることになったと言うことを差し引いても、現在よりも子供を分け隔てなく慈しんでいる社会があった気がするのである。現在よりも育つ子供が少なかったからとも言えるが、育児放棄や子殺しの殺伐たる現代の社会状況はどこかおかしいのではないかと感じさせられる。もう一点、今後このような伝記文学が不可能になるのではないかと思われた点であるが、戸籍の入手という点である、個人情報保護法に阻まれ、戸籍情報を入手することが極めて困難になっている。足立のように、育ててもらった寺などは、過去帳が存在していたが、それさえ、この時点でも他人に閲覧させなかったというから、現在では更に困難であろう。事実私も実家の土地に明治二〇年代の抵当がついていて、これを削除するためにそこに記された人物の子孫をさがさなけれんばならなかった時、非常な困難を被った経験がある。

しかし、両親、祖父母などがどう生きたかを探ると言うことは、子孫にとってはなかなか心が震える事ではあるまいか。時には悲喜劇が生じたとしてもである。足立の場合、祖父が幼児の自分をマントに包んで金の無心をしていた姿は深く心にのこったようである。その祖父が、実は著名な漢学者でありながら、女義太夫に迷い妾に囲いながら逃げられていたり、残された文献はなんと漢文で書かれた好色漢文学であったことに笑わせられる。一方父菰川は辛亥革命の孫文などとも関係がある「二六新報」社主の秋山定輔の後継を望まれながら急逝したことで、その後の日本の急激な戦争の世に生きていたら必ずや激しい弾圧に晒されたかもしれないジャーナリストとなったとおもわせられるのである。

本書を読みながら、実は私も無能の人で、保育園に入れる金もなく私を自転車に乗せて、毎日近所を訪ね歩き、そこここで話し込み、私はそこで縁側にちょこんと坐らされ、お菓子を戴くという貧困を経験してきた。その父なる人を懐かしく思い出していたのである。

魔女:加藤恵子