魔女の本領
負け戦と分かっていても…

幻影の明治

『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』渡辺京二


負け戦と分かっていても止むにやまれず闘うこと、義に生きるとはそういうことだ。

『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』渡辺京二 を読む。

何故か、渡辺京二の本が私の琴線に触れるのである。『逝きし世の面影』『近代の呪い』。今回、本書に飛びついたのは、山田風太郎論があるということだったからなのである。山田風太郎は些か風変わりな「くのいち忍法帳」やら結構好きで読んでいたが、晩年に書かれた明治期の歴史物がめちゃくちゃ面白かったのだが、正統に評価した評論にお目に掛ったことがなかった。まー歴史的な人物が配置されているが、それらが主人公とは言えず、間を繋ぐ幽霊が活躍したりするのだから評価の仕様がなかったのかもしれないが、そこは渡辺京二、ほめちぎっている。すごい嬉しい。かれは、最近まで風太郎を読んだことがなかったそうだ。読んでみて仰天した。

「おもしろいだけではない、私は作者の幕末明治期についての知識が第一級であることに感心した。政情・世相・人物・事件にわたって、膨大で正確な知識の上にきずかれた小説群だということがすぐわかる」。と。「ありふれた明治のサクセス・ストーリーを拒否して、変革期の混沌を名も無き者の立場から直視しようとする史眼が光る。あくまで異説・外伝の視点を崩さない。明治開化期を異化する新たな歴史が書かれたという思いさえした」。

「風太郎の明治開化期物語は断じて歴史小説ではなく、基本的に話の構造は虚構の上に建てられている。その虚構の中に、話に必ずしも必要ではない著名人が登場することによって、風太郎一流の奇想にみちた虚構が奇妙なリアリティを獲得する。もちろん史実のリアリティではなく、かくあってもおかしくないもうひとつの「史実」が、異次元的リアリティを帯びて出現するのだ」。

実在の著名人、たとえば樋口一葉、田山花袋、森鴎外、幸田露伴のような作家がひょコット書きこまれたりするのだがそれについて、「これこそシュルレアリスムの愛用したコラージュの手法にほかならない。小説の効用が現実の既知の相貌を解体して、新たな相貌を呈示することにあるとすれば、風太郎の著名人を利用しての意外性の創出は、たんなる知的遊びというより小説が本来もつべき創造作用と知るべきである」。小説の本来的意味においてストーリテーリングの冴えを評価している。凄くうれしい。そして、私の心を常にゆさぶる精神。すなわち敗者へ向けての視線について風太郎もまたそうあったことを、捉えている。「風太郎には維新の敗者に対する強い同情があって、これは彼の反時代的な鬱懐が洩らされた一遍といってよい。風太郎はよく正義を信じないニヒリストなどと評されるけれども、それは時代が正義と称するものを信じないというだけで、かえって内心に極めて強い正義感を秘めた人なのである。敗者は敗れるべくして敗れたのだろうが、かといって勝者が敗者に加えた理不尽な行為を許してはならない。風太郎が敗戦経験によって得たきわめて強烈な信念のひとつにこのことがあった(それは敗戦日記に明記されている)」

「倫理も心情も踏みにじる歴史の進歩に対して、一矢報いずにはいられないのが彼の作家としての基本的立場である。私が風太郎の「史眼」を云々するのは、歴史に対する広汎な見識とか、史実の解釈の深さとかを言うのではなく、歴史の谷間に埋没してゆくものへの感覚、あえていえばカメラのロー・アングルぶりを指すのだ」。

そして、この敗者への視線の先に、渡辺京二は、近代以前に存在した良きものが、明治国家によって封殺されてゆくことを知った以上、その良きものとは何であったのか?敗れて行く者たちが残した幻影を拾うことを自らの書くことの基礎において、歴史を見直して、遅れた政治・経済・文化だとして一顧だにしない色々な事件で歴史の下層に生きた人々を拾い上げることで、専門家と言われる歴史学者を穏やかに糾弾するのである。

本書は実は山田風太郎論だけではない。『坂の上の雲』の司馬遼太郎の史観を痛烈に批判している。私自身も、司馬遼太郎の明治期をゼロから出発した青春の日本として見る視点に違和感があった。実は江戸時代が封建制の圧政下に呻吟する民衆と抑圧する武士階級。鎖国下での文化の退廃という図式は、今や捉え直されている。タイモン・スクリーチや田中優子や高山宏が歴史人類学として江戸期を再発見している。明治はその基盤を引き継ぎながら国民国家としての枠組みを構築する過程で、むしろ抑圧の国家を構築して行く。その過程で、起こる士族の反乱(最大のものとしての西南戦争)や自由民権運動。この問題にも2章が割かれている。士族の反乱についても、一見歴史を後戻りさせようとしているという一般の見かたとは逆に、江戸時代にあった士族の政治参加のシステムを明治国家が上層藩閥人士に権力を集中しようとしたのに対して、江戸時代的士族を下方に広げそこに政治参加を広げようとしたものであったという見方を示している。西郷の良く分からない征韓論と下野、西南戦争への関わりも、もう一つの士族反乱神風連を詳細に調べた時、分かって来るものがある。

自由民権運動についても、渡辺は豪傑民権と博徒民権とハイカラ民権という秀逸な分類をしている。自由民権運動が知的上層部に始まり、下層へ拡大し云々なんかは専門家のたわごとだと言うのである。もちろん色川大吉などによる多摩の民権の掘り起こしや井上幸治の秩父困民党の見事な研究もあるが、徹底抗戦したのが結局は土着の土豪層の豪傑的な精神構造の人物であったり、博徒であったりする点を、もっと前面に立てるべきだと渡辺は言うのである。これを聞いた色川大吉は「こんなものは講談だ」と非難したそうである。

さて、最後に異質の章が入っている。内村鑑三についてである。渡辺は内村鑑三に試されていると書いている。「世界は不正かつ醜悪である。汝はそれでも生きてゆけるのかと彼は私に問うのである」「これはおそろしいことである。私が鑑三の前に立ち止まるのは、この問いに震撼させられるからであり、ほかの理由からではない」として、鑑三に向かうのである。しかし、渡辺は答えを見いだせなかった。ただ人間を超えた大いなる実在を感知し、世界は人間のためにあるのではない、愚かなる者である人間は世界から許されて存在しているのだとして、自らを一個の愚者として生きるのだと結んでいる。福島の原発事故後に生きる道を探る私たちには、とても切実な読みである。渡辺の達者な文章の裏にある、歴史を読み解くことで、生きることの本義を教えられたような気がした。