魔女の本領
私より一世代下の小学生が経験…

滝山コミューン

 

『滝山コミューン 1974』


私より一世代下の小学生の経験した学校教育。その場でこれほど冷静に批判できた小学生とは・・・どうもかなりの違和感が残った。

『滝山コミューン 1974』原 武史 著 を読む。

著者原は日本政治思想史の学者であるが、本書は自らが経験した小学5,6年時の小学教育の現場で行われた教育に対する批判として書かれた。それが、歴史的検証としてではなく、自らの経験を書いたドキュメンタリーとなっている点で、ユニークである。私は、この本の評判を何かで読んで、買ってあったのであるが、内容を全く誤解して買ってあったことで、驚いたのである。私が何を間違えたかと言うと題名である。『滝山コミューン 1974』でイメージしていたのは、69,70年の政治の季節が終わった後に、滝山というところで、何らかの共同体が機能していて、その報告書だと思い込んでいた。大間違いであった。

舞台となったのは滝山団地とその小学校である。滝山団地は日本住宅公団が66年から久留米町の南西部に広がる無居住地域の雑木林を伐採して土地区画整理を行ない、68年から70年にかけて建てられた。久留米町では、ひばりが丘団地、東久留米団地に次いで建設された公団の団地である。西武線沿線の陸の孤島とも言うべき滝山地域の巨大団地は住民の生活水準が平均的で、都知事に美濃部を当選させたり、国政においても共産党の議員が大幅に当選させたりする力になるような革新的な住民が居住する場所でもあった。原が小学6年生になった1974年、団地の生徒がほぼすべてであるような小学校七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちをおもな主人公とする、ひとつの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、「政治の季節」は、舞台を都心や周縁部の山荘から郊外の団地へと移動しながら、72年以降もなおつづいていたと見ることもできるのである。

筆者はここで、国家権力から自立と、児童を主権者とする民主的な学習の確立を目指したその地域共同体を、いささかの思い入れを込めて「滝山コミューン」と呼ぶことにした。それが本のタイトルなのである。いまでこそ、学校が本質的に権力性をもつというのは教育学で自明の前提となっているが、当時はそうではなかった。七小の教師たちは、「自らの教育行為そのものが別の形での権威主義をはらむことになるなどという自覚」はつゆほどもなく、コミューンの理想を信じ、その建設へ向かっていったのである。
まず取り組まれたのがPTAの刷新であった。それまでのPTAはだいたい地域のボスがなり、学校の後押しだけが仕事のようなものであったが、滝山第7小学校の母親達はまず生徒数の多いにもかかわらずプレハブの校舎を改善するよう要求運動を自発的に始めた。それまでの小学校の親といえば、母親が自由に時間を使えることは少なかったから、サラリーマン主体の団地の母親たちが前面に出て来ることは不思議ではない。多分、当時の若い母親たちは、政治の季節を見聞きし、あるいは実際経験していたであろうから、古い体質のPTAを打破して、役員になりどんどんと行動に移した。役員に自ら立候補し、財政的に殆ど学校に握られていた使用の自由権を拡大し、クラス単位で使えるようにして、色々な校外活動の資金とした。

教育の現場では「水道方式」と「学級集団づくり」がメインテーマとなった。「水道方式」とは東京工業大学で数学を教えていた遠山啓が提唱した数学の教育方式で従来の算数教育が「数え主義」の原則にのっとっていることに批判的で、「児童は、数よりも量の考えをはやく身につける」という理論から編み出されたものだ。確かに私もきいた覚えがあるが、実際がどういうものなのかは、判断できない。ただ、この「水道方式」は文部省を頂点とする権威の体系を揺るがしかねなかったようで、教科書は採用されず、ほぼ教員の裁量で取り入れられていたようである。しかし、遠山の考えに賛同する母親は多く、「水道ママ」と言われて、小学校への教育方針を強く批判したりするグループを構成したりしたようである。

もう一点が「学級集団づくり」である。これは単なる集団としてのクラスと言うのではなく、明確な意味づけがなされた「学級集団」なのである。非常に政治的な意味合いが強いものである。「集団は「民主的集団」、つまり「民主集中性を組織原則とし、単一の目的に向かって統一的に行動する自治的集団」にならなくてはならない。そのためには目的自覚的な教師の指導が不可欠であるが、「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」。児童は教師から「正しい指導」を受ければ、かならず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えてゆくとされるのである」。後に述べるように、殆どソ連型ピオニールを連想させる。そしてその集団は「当面する集団の内部の民主化だけで満足することはできない。それは同時に、その集団の外にも絶えず民主的集団を築き出そうとする。たとえば学級集団づくりは、さしあたって学級をてがかりとしつつ、それを民主的集団として形成していくとともに、そこにとどまることなく、他学級へ、全校生徒集団へ、さらに家庭や地域諸集団へとその活動領域を広げていく。このように当面する集団の外に民主的集団を築き出していくことこそ、集団づくりの本来的なテーマなのである」(学校集団づくり入門。第二版)。すなわち、小学校の一クラスから始まり、その規模を地域に広げて行くと云う、革命プロセスを内包した論理なのである。

この理論を唱えたのは全生研(全国生活指導研究協議会)で、「学校集団づくり」は、最終的にはその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその学校が位置する地域住民全体を「民主的集団」に変革するところまで射程にはいっていたのである。「滝山コミューン」の思想的母胎はここにあった。この教育理論に基づいての実践がなされ、その教育対象となった生徒としての著者の原が感じた強い違和感と嫌悪とそれからの逃避について、この本は述べられているのである。まずこのコミューンの核としての「班」づくりがなされるのであるが、この段階で、教師が児童に集団を教え、集団を認識させてゆくための最初の教育的道具は「班」である。この段階では、班が学級に代わる「基礎的集団」となる。全生研ではこれを「班づくり」と呼び、「核づくり」と並んで重視する。しかし、その「班」は競争論理に則り、成果主義が取り入れられ、落ちこぼれを「ボロ」と呼ぶようなものであった。つまり全生研は、陸海軍が解体されて以来、長らく死語となっていた「班」を、60年代になって学校教育の現場にもちこんだのである。さらに児童が運営する委員会{代表児童委員会」が作られるのであるが、いかにも民主主義的であるが、委員の選挙は全生研の指導原理を強く持つ教員(七小の場合はたった一人の教員)の指導のもとに、選挙の演説にその教員の修正がなされた演説がなされ、児童委員会の全ポストがその教員のクラスが独占するというふうになって行く。生徒の自治を表明し、そのように働くように教員が引きずり、それを教育成果としたということのようである。この最たるものが「集団主義」優先の原理で、いわば全てが連帯責任を取らされる。原の実経験での林間学校での経験でも、すべてに目標が設定され、それをクリアー出来なければ減点され、表に書きだされる。山登りに一人でも遅れる者が出れば、班全員がボロ班として認定される。さらに此れは信じられないことであるが、ある決定事項に反対の者に対して、「追求」という措置がなされたというのである。これは実におぞましい。「集団の名誉を傷つけ、利益をふみにじるものとして、ある対照に爆発的に集団が怒りを感ずるときがある。そういうとき、集団が自己の利益や名誉を守ろうとして対称に怒りをぶつけ、相手の自己批判、自己変革を王宮して対称に激しく迫ることーこれをわたしたちは「追求」と呼んで、実践的には非常に重視しているのである。(『学級集団づくり入門』第二版)。私たちの世代なら誰でもが思い起こす連合赤軍の「総括」である。

このような教育の最中に原は嫌悪を感じ、中学受験のための塾に通い出すのである。そこに自由を感じたらしい。四谷大塚の塾の学習が原の自尊心を満足させたようだ。小学生の塾と言うのは頭の良い子供にとっては自信をつけられる場であったと考えられる。実際、最終的には最上位にまで昇っている。しかし、滝山団地から塾に通い地元の中学へは行かなかったものは四名と書かれているので、かなり特殊ではあったと思う。私は一世代前の生まれであるが、相模原のド田舎の小学校で、五年の時、駅前に公団が出来、学校の雰囲気が完全に変わったのを経験している。団地の子どもたちは、原と同じく塾に通い、学校の成績は一様に良かった。私は貧困家庭で、塾どころか、幼稚園へも行けなかった位であるが、団地族に伍していたし、時には彼らを凌駕することもあり、地元の子どもやその親たち(農業や店やであった彼らは団地族に土人と呼ばれていた)から「土人の星」と言われていたのである。そして団地族の一部は東京の中学に進んだが、私にも教員は国立大の付属を受験するように勧めたが、私はそれを受けなかった。金がかかることはできないと思ったからでもあるが、もっと心の深い所で、他人と競争するのが嫌だったからだ。この点で、原の中学受験のための塾通いを嬉々として書いている処に、何んとも云えない違和感を感じざるを得ないのだ。

原が七小の教育に感じた問題点は、集団主義による成果の引き上げの中で「個」の自立が否定されるという非常に大きな問題を提起している。この問題は社会主義の理論についてもまず指摘される問題点である。全生研の運動も80年代末のソ連・東欧諸国の崩壊によって、「現代民主主義の流れがソヴィエト的権力による単一統制型の国家ではもはや市民社会的な民主化と共存しがたいことが証明されたことで、マカレンコの影響を受けた全生研の旧ソ連型集団主義に基づく生活指導は、ここに至ってその正統性を厳しく問われることになり、消滅した。

ひるがえって、現在の小学校の教育現場がどうなっているのかは、よく分からない。経済的余裕のある子供達は、原と同じように、中学受験のために塾に通いっているし、いじめ問題での自殺が見られたり、教師への暴行に警察が介入したり、さらに大きな問題としては国家の締め付けが強くなり、教科書への締め付けが強まる一方、共働きの家庭の増加でPTAの機能はほぼ壊滅している。「滝川コミューン」が目指した地域に根差した平等の教育という理念の再構築は必要のような気がする。

魔女:加藤恵子