情熱の本箱
理想主義哲学者と現実主義哲学者の論争対談:情熱の本箱(74)

闘う哲学書

理想主義哲学者と現実主義哲学者の論争対談


情熱的読書人間・榎戸 誠

『闘うための哲学書』(小川仁志・萱野稔人著、講談社現代新書)は、3つの点で型破りな哲学入門書である。

第1の点だが、同年生まれの理想主義哲学者・小川仁志と、現実主義哲学者・萱野稔人の対談なので、同一のテクストを題材にしているのに、異なった見解が示されることがある。しかも、師弟関係にない対等な二人なので、発言に余計な遠慮がない。このため、読者には、その哲学書の要所が立体的に浮かび上がってくる感じがするのだ。

第2は、取り上げる22冊の哲学書の選択に工夫が凝らされているので、通読すると、読者の頭の中に哲学史のアウトラインが自然に流れ込んでくる仕掛けになっていることだ。

第3は、「善く生きるとはどういうことか?」、「国家とは何か?」、「自分の財産は自分のものか?」、「死刑は必要か?」、「なぜいじめはなくならないのか?」、「戦争はなくせるのか?」、「なぜわれわれは法やルールに従わなくてはならないのか?」、「よりよく働くにはどうすればいいのか?」、「生きるとはどういうことか?」、「他者とは誰か?」、「権力は悪か?」、「悪とは何か?」、「正義とは何か?」、「正しい戦争はありうるのか?」、「日本独自の哲学はありうるのか?」、「日本は特殊な国か?」といった魅力的な設問が立てられ、これらを論じるのに一番ふさわしい哲学書が充てられているので、論点が明確になり、読者が哲学の広大な海で溺れる心配をしなくてすむことだ。

「愛するとはどういうことか?」では、プラトンの『饗宴』が俎上に載せられている。「小川:これはプラトンの円熟期に書かれたと言われる本で、ソクラテスをはじめ有名な詩人たちが、それぞれ愛の神『エロス』について酒席で演説をしていくという物語です」。「萱野:この本では『エロス』をテーマに何人かの登場人物が順番に演説しますよね。そして一通り演説が終わったあと、ソクラテスが出てきて大演説をぶつ。ここで『エロス』と呼ばれているのは、もちろん男女の性愛も含みますが、もっと大きな『愛』のことですよね。そしてその中身は、いま小川さんが言われたように、完璧なものを求める衝動、エネルギーだと考えられている」。「萱野:(ソクラテスは)エロスの根源にあるのは、自分がいつか死んでしまうことを人間が知っていることだと述べています」。人間は必ず死ぬ、自分の生は有限である、この厳然たる事実を知っているからこそ、エロスが生まれてくると、プラトンは言っているのだ。

「私とは誰か?」では、ルネ・デカルトの『方法序説』を巡って、二人の意見が火花を散らす。「萱野:この確実な自我というところから、すべてを組み立てていこうとしたのがデカルト哲学です。デカルトが近代哲学の祖だと言われるのは、こうした理由からですね」。「小川:そうですね。しかし問題は、後世の哲学者たちが、デカルトの本来の意図を超えて、自己意識というものがいちばん大事だというところを過大視し、それが一人歩きしていったところにあると思うんです。そして、じつはそれは彼の導き出した結論にもやはり非があったからではないかと思っています。つまり『われ思う、ゆえにわれあり』自体に問題があるんじゃないかと」。私は小川の哲学解説書のファンであるが、このデカルト評価については萱野の肩を持ちたい。

「どうして結婚しなければならないのか?」では、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの『法の哲学』が材料として選ばれているが、人間味溢れるヘーゲルが身近に感じられる。「小川:先輩哲学者やライバル哲学者が主観的だとか客観的だとか形容される中で、自分のは絶対だと言われると、たしかに完成形態なのかなと思わせるところはあるんです。そうしたところはうまいですね」。「萱野:ええ。ヘーゲルがおもしろいのは、ヘーゲル以前の哲学を自分の哲学の中に位置づけてしまうところですね。プラトンは私の哲学で言えばこの段階、デカルトはこの段階、というように。そして最終的にはヘーゲル自身の哲学がそれこそ絶対精神まで登りつめて、全体を見渡している、と位置づける。本当に野心的です」。「小川:つまりヘーゲルの法哲学というのは、先ほど萱野さんも指摘されたように、すべてものごとが発展していくという思考法なんです。弁証法と言われますけれども、ある問題があったときに、それを解決して、さらに発展させる。この婚姻、あるいは家族論もまた、そうした発展形態の中の一部として位置づけられています」。「小川:ヘーゲルはちなみに結婚もして、子どももいて、さらに不倫経験があって、私生児もいたという話ですから、ある意味、自分の思想を『実践』している人ではありますね」。「小川:萱野さんが哲学の先生と言われましたが、ヘーゲルは、実際に人気講師だったんですね。彼の時代、大学の講師の給料は、学生の数で決まっていました。彼の場合、もう圧倒的な数を集めていて、そこに来たアルトゥル・ショーペンハウアーが、同じ時間に講義を持って、学生が全然集まらずあきらめて出ていったという話があるぐらい、学生たちを魅了する講師だったらしいですね」。

「われわれは技術とどう付き合えばよいのか?」では、マルティン・ハイデッガーの『技術への問い』が取り上げられている。「萱野:哲学史の観点から言えば、存在論を切り開き、サルトル、レヴィナスに影響を与えただけではなく、フランスのポストモダンと言われる哲学者たちにも大きな影響を与えました。フーコー、ドゥルーズ、デリダ等々、すべてハイデッガーが切り開いた存在論のうえで新しい議論を展開している。ですから、哲学の影響力と広がりという点では、ハイデッガーは20世紀でもっとも重要な哲学者だと言えるでしょう」。ハイデッガー以後の哲学は全て、ハイデッガーを源流としているのだ。

「文明とは何か? 社会をどう見るか?」は、クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の出番だ。「萱野:レヴィ=ストロースの仕事は、ポスト構造主義で乗り越えられたとしばしば言われますよね」。「小川:そうですね。まさにポスト構造主義の代表格と目されるジャック・デリダのレヴィ=ストロース批判がそうですね」。「萱野:つまり、デリダのレヴィ=ストロース批判は、レヴィ=ストロースの議論そのものをずいぶんと捻じ曲げてなされているのです。・・・その議論の少なくともレヴィ=ストロースに関するところでは、牽強付会がはなはだしく、ほとんど説得力がありません。これではポスト構造主義思想と言われるものが本当に内実のあるものなのか、疑わしくなってきます」。どうしてもポスト構造主義に好感が持てない私としては、萱野の小気味よい発言に溜飲が下がる思いだ。

「なぜわれわれは勉強しなければならないのか?」では、福澤諭吉の『学問のすすめ』が登場する。「萱野:この本でものすごく有名なのが冒頭の部分ですよね。『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり』という文章。だからここだけを取って、江戸時代は身分制の社会だったのが、明治の近代国家の時代になったこれからは、人間はみな平等なんだということを説いた本だと思っている人も多いと思います。でもこれはまったく違います」。これは重要な指摘である。

反対意見の持ち主と議論すると内容が深まる、大勢で意見をぶつけ合うと思いがけないアイディアが浮かんでくるといった経験をすることがあるが、これと同様の効果を上げることに、本書は見事に成功している。