情熱の本箱
パリの社交界を追われた子爵夫人の、その後の物語:情熱の本箱(83)

バルザック15

パリの社交界を追われた子爵夫人の、その後の物語


情熱的読書人間・榎戸 誠

オノレ・ド・バルザックの長篇、短篇87作品を体系化した壮大な大長篇『人間喜劇』の出発点ともいうべき『ゴリオ爺さん』(オノレ・ド・バルザック著、新潮文庫)の登場人物の中で、私にとってとりわけ興味深い存在はボーセアン子爵夫人である。

『ゴリオ爺さん』の主役ではなかったが、パリ社交界の大輪の華であった彼女は、熱愛した愛人に捨てられたため社交界にいられなくなり、追われるように田舎に隠棲してしまう。その後の彼女が描かれているのが『捨てられた女』(オノレ・ド・バルザック著、市原豊太訳、東京創元社『バルザック全集(15) ベアトリックス・捨てられた女』所収。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)である。この短篇では、もちろん彼女が主役だ。この「人物再登場」という手法こそ、『人間喜劇』の醍醐味なのである。

ガストン・ド・ニュエイユ男爵という若者が、病後の静養のため、パリからこの田舎にやって来る。

「『そのボーセアン夫人という方は、もしやダジュダ・パント氏との関係が大評判になった女性でしょうか?』とガストンは(貴族のサロンで)そばにいた年寄りの女性にきいた。『そうそう、その人です』とその女性は答えた。『あの人はダジュダ侯爵が(他の令嬢と)結婚したあと、クールセルに来て住んでいますが、ここの人たちは誰も家に迎えません。もっとも頭のたいへん働く人ですから、自分の立場が工合の悪いということを感じなかったはずはありません。だから誰にも会おうとはしなかったんですの。・・・ここでは夫と別れた婦人を受け入れることはできません。これは古い思想ですが、われわれは愚かなようですけれどまだそれに執着していますの。ボーセアン氏が礼儀を重んずる紳士で、宮廷人であるだけ、いっそう子爵夫人が家出をしたことは罪が重いのです』」。

「美しい若い女性は一つの幸福な恋愛かまたはおぞましい裏切りの宿命的な名声によっていっそう魅力を加える。憐むべきであればあるほど、ますます彼女は共感をあおる」。ガストンは未だ見ぬ女性に惹きつけられていく。「ボーセアン夫人は彼の魂のなかに、一時眠っていた青春の夢と、もっとも烈しい情炎の記憶とを呼びさましつつあった」のである。

ガストンは手練手管を弄して、何とか夫人との面会に漕ぎ着ける。「ボーセアン子爵夫人は金髪で、肌は金髪の人らしく白く、眼は褐色であった。彼女はわるびれずに額をあげていた。それは自分の過失を誇って、人の宥恕などを求めない堕天使の額であった。豊かな髪は、この額に大きな曲線を描く二つに分けた束の上に編んで高くつかねられ、顔の壮厳さをさらに増していた。・・・美貌と不幸と高貴というこの三つの光輝に眩惑されて、彼は子爵夫人を嘆賞しながら、何も言うことが見つからず、ほとんど呆然と、思いに沈んだままであった」。本書に添付されている月報にフュルヌ版バルザック全集(1842年)のエルネスト・メーソニエによるボーセアン夫人の挿し絵が掲載されているが、椅子に掛け、目を閉じて瞑想に耽る夫人の美しさ、高貴さといったら、ガストンでなくても男なら誰でも息を呑むことだろう。

「三年以来すべての人々を離れ、町から遠い小さな谷の奥に、輝かしい、幸福な、熱烈だった若い年月の思い出を抱いてただ一人、かつては盛んな宴や、男からの絶えざる讃辞に満たされたのに、今や恐ろしい虚無の中につき落されているこの女性を、だだっ広くひっそりした客間に見るということは、考えてみればさらに深みを増す一つの堂々たる光景ではなかったろうか」。

ボーセアン夫人からガストンへの手紙の一節。「私はやがて30歳になりますけれど、あなたはやっと22です。あなたは、私の齢におなりになる頃どんなお考えになるかを知っていらっしゃいません。今日あなたがあんなに容易にお誓いになる誓いは、その頃にはたいへん重いものに見えるかもしれません。今日のところでは、これは私も信じたいと思いますが、あなたはなんの悔もなくあなたの全生命を私に与えようとおっしゃる、あなたは、はかない快楽のために死ぬことさえできるとおっしゃる、けれども30歳におなりになったら、世の中の経験があなたから毎日私のために犠牲を払う力を取り去るでしょうし、私の方はそれを受け容れることに深い屈辱を感ずるでしょう。いつかは、すべてのことが、自然の性そのものがあなたに私を捨てるように命令するでしょう」と、拒絶を続けるが、遂にガストンの愛を受け容れる。

「ボーセアン夫人とニュエイユ氏は、子爵夫人が借りたジュネーヴ湖畔の別荘に3年間留まった。彼らは二人きりで、誰にも会わず、人々から噂をされることもなく、船を乗りまわしたり、遅く起きたり、要するにわれわれ皆が夢想するような幸福をたのしんだ」。

やがて二人はフランスに居を移し、幸福な6年間を送ったが、この後に相次いで起こったことは、余りと言えば余りなことなので、私の口からはとても語れない。

『ゴリオ爺さん』で、世間知らずの若者を悪の道に誘い込む世故に長けた男として、脇役ながら強烈な存在感を発揮するヴォートランのその後も、大いに気になるところだ。同書の最後のほうで、同宿人の密告によって警察に逮捕され消息を絶ったヴォ―トランこと脱獄徒刑囚のジャック・コランは、何と、『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』に再登場し、大活躍をするのである。

『バルザック全集(11) 幻滅(上)』『バルザック全集(12) 幻滅(下)』(オノレ・ド・バルザック著、生島遼一訳、東京創元社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、またまた脱獄を果たしたジャック・コランが、イスパニアの僧院長、カルロス・エレーラ神父に成り済まして、主人公の若者を支援する。

さらに、『バルザック全集(13) 浮かれ女盛衰記(上)』『バルザック全集(14) 浮かれ女盛衰記(下)』(オノレ・ド・バルザック著、寺田透訳、東京創元社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、再び囚われた獄中のジャック・コランが、犯罪者・未決囚として、犯罪を追及する検事長相手に丁々発止と渡り合う。そして、この物語は、「ジャック・コランは15年ばかりその職務(治安警察班長)を遂行した後、1845年頃引退した」と結ばれているのだから、その変わり身の激しさには呆気に取られてしまう。