学魔の本函
『驚異と占有 新世界の驚き』を読む!

脅威と占有

『驚異と占有 新世界の驚き』


ヨーロッパ人のラテンアメリカ侵略の初めに何があったのか。軍事の前にあったものとは・・・学魔高山師が必ず読めーーと指示されている本、概略は知っていたのだが読んでみた。

コロンブスに始まり、コルテスらがいったいどのように新世界、即ちラテンアメリカ世界を認識し、そして平然と苦もなく侵略していったのか?旧世界のヨーロッパ人のキリスト教精神と新世界の侵略とに宗教的な精神的な葛藤と言うものはなかったのか?私自身がラテンアメリカに些か関心を持つ者にとっては、かなり気になる問題である。単にヨーロッパ人たちが文化や武力において勝っていたとか、インディオの方にスペイン人を神と誤認する神話にその原因があったとかいう表層的な歴史認識とは、本書はかけはなれて深く深刻な視点を提示している。

グリーンブラットはこの本において、中世後期と近代初期のヨーロッパ人が、非ヨーロッパ人をどのように表象し、彼らの土地、とりわけ新世界の土地を占有して侵略を開始していったかを研究したものである。グリーンブラットは、当時の旅行記、法的記録文書、公式の報告書を革新的に読み込み、そこに何度も現れる「驚異」なるものという経験が当時の芸術と哲学の中心概念とリンクしていて、コロンブスとその後の侵略者たちにより、「占有」にスライドして行くその巧妙なからくりについて記しているのである。グリーンブラットはヨーロッパ人が新大陸に上陸した時、伝統的な象徴行為と法的儀式を執り行う。たとえば名ずけの行為。勿論インディオとヨーロッパ人との間では言語による両者の意志の疎通はない。それゆえヨーロッパ人は土地に先住民が居住していなければ、自らの土地として名ずけ、占有する。その根拠はキリスト教世界観に置いて、世界はすべて充満していて、無なるものはないのであり、それゆえ名前をつけて神のものを確定することはキリスト者の神聖なる行ないと言うわけである。しかし「驚いた」から自分のものにしたのだと言う単純なからくりではないようだ。グリーンブラットは非常に入り組んだ認識の問題として著述している。「つまり、ヨーロッパ人がアメリカに持ち込んだ表象の実践活動(慣習)、そして彼らが自分の国の仲間に自分の見たこと、行なったことを記述して見せようとしたとき、そのときに配備したその表象の実践活動(慣習)がいかなるものであったのか、それに注意を傾けて見ることである」。そして自らの著述の立ち位置についてこう記している。「これまで私は、ヨーロッパ人が書いたり描いたりしたものが、新世界の土地とそこに住む種族とがいかなるものであるかを説明した正確で信用のおけるもの、そう見なすことに対してきわめて慎重であった。この懐疑的姿勢を、絶対的な確固とした主義にすることはほとんど不可能である。わたしは分かっているーふと気づくとわたしは自分が、アメリカの原住民が「現実に」どうであったか説明したものを、ヨーロッパ人の痕跡の中にたえず読み込もうと懸命につとめている。とはいえ、私は次のような誘惑に対して可能な限り抵抗してきた。つまりその誘惑とは、ヨーロッパ人の表象が行なった媒介作用は考慮すべき副次的事柄であって、容易に補正されるものであるかのごとく、原住民の文化の代弁をする、もしくはその文化について語ると言う誘惑である」。これだけでは分かりにくいは、つまりヨーロッパ人が記した記録から原住民の現実の姿を読み込もうとするヨーロッパ人である自分の在り様に問題ありと認識しているにもかかわらず、当時の記録を自らの視点で補正することで原住民の文化の代弁者となっていると言うことについての反省である。そのような現代ヨーロッパ人としてのかなり引いた所から当時の記録を読むことで新世界に対する当時のヨーロッパ人の認識行為が改めてつまびらかになって来る。ここに置いて驚きというキーワードが出て来る。古典的モデルに置いて、何事に置いても超然たる態度がよしとされていたのであるが、新世界を目にした時その箍が外れた。コロンブスの冒険航海は、強烈な驚きの世紀の開始をつげた。この驚きの経験はいったい快楽なのか苦痛なのかあるいは憧れかはたまた恐怖か。それはそのものを放棄するための動因となるのか、あるいは珍しいものの占有への道へとすすむのかが実は多義的であったという。それを分析すれば、すなわち驚くという行為は外在するもの全てと自己の内的確信とを結びつけることになるからであるが、初期の冒険航海者たちにとって、この驚きはまさにそのことの実経験を示した。「驚異(マーヴェル)」と「驚き(ワンダー)」という語そのものが、物質的対象の指示と、その対象への反応の指示、その間の精神の往還である。つまり、強烈でほとんど魔術的幻灯ともいえる心の状態と、びっくりした最初の瞬間が過ぎ去った後で、触れて、目録を作り、そこに記載し、占有できることができるように完全に外在化された対象とする。これがコロンブスやその後の侵略者たちの行動の基本パターンであった。

コロンブスの占有化の身振りはこうであった。実際にその土地に足をつけること(単に船上から眺めるだけでは十分ではない)、法的記録の手順(公証人と目撃者が求められる)、その土地に物的に部分的変更を加えるもしくは印をつけること、地図に記載される(それ故に立証され再占有される)特徴的な地域に建物を建てることによって司法を正式に行使する。この間にさらに古典的な象徴行動がなされる。石を設置すること、草を刈ること、塚を盛ること、あるいは柱を立てること、十字架を建立すること、さらに水を飲むことなどが記されている。このような象徴行為がなされても、インディオにとっては勿論なんの意味をなすものではない。原住民が反対の声を上げることなど不可能であるのであるが、この行為はあたかも原住民に向けてなされた占有の了承の為であるかのごとく行為された。このように、コロンブスの航海はスペイン本国の所有欲を刺激する結果となる未知なるものの驚きを連発し、それを占有する行為を書き連ねる修辞的、政治的なもののオンパレードとなる。

ついで問題となるのは言語の問題である。実に奇妙なことなのだが、原住民が分かるはずがないことを前提とした儀式を執り行うのではなく、スペイン語が分かるものとして占有の為の法的儀式を執り行い、新世界を占有した。そして1513年以後征服者(コンキスタドール)たちは、新たに出会った全ての住民に対して催告、つまりスペイン語で書かれた文書を読み上げることが必須とされた。この文書はこれらの住民に対して、スペイン王と王女の家臣として彼らがもつ権利と義務について教えるものであった。即座に服従すれば報われるであろう、しかし拒否したり悪意をもって遅延すると、激しく罰せられるであろう、と言明するのである。儀式、皮肉な言葉、法的虚構、そして倒錯した理想主義、こうしたものが奇妙に入り混じったものとしての催告はその中核に、インディオとヨーロッパ人とのあいだにはいかなる重要な言語的障害もないという確信を含んでいる。しかしこの明確な欺瞞は当時、インディオの救済のために生涯を費やしたラス・カサス神父のような者には、この確信こそが危険で不合理であることは分かっていた。ラス・カサスの視点は、スペインの言語的植民地政策を見抜いていたといえるだろう。この言語の媒介者の存在は初期に置いては非常に重要であった。この本では詳しくは触れられてはいないが、コルテスのアステカ侵略を媒介したということで今でも毀誉褒貶に晒されている女性マリンチェの例がある。彼女はコルテスに差し出された女性であるが非常に聡明でコルテスの通訳を果たしたのであるが、結果はアステカの壊滅に導いたということでメキシコでは非難の対象になっている。しかし、マリンチェ以外にも通訳となって、むしろ自分の部族の逃亡を成功させた例などもあるようで、言語の媒介者の問題は複雑である。特にラテンアメリカ(ブラジルを除く)各国は今ではスペイン語が公用語である。勿論いまはインディオの自立性が認められていて幾つものインディオの言語が使用されている。現にボリヴィアのウカマウ集団の映画はアイマラ語で作られていている。スペイン語が公用語であることによりラテンアメリカの言語的な障害が少ないという一面と各国の文化的な特徴を消しているという弊害、さらに言えばスペインと言う侵略者の言語で自らのアイデンティを持たねばならないと言う深い悲しみの意味を私たちは感じるものである。

少し論点がずれたが、最終的にグリーンブラットの言わんとしたことは、実は、当時のヨーロッパ人がインディオや新大陸の住民たちになした非寛容の歴史記述だけが残されたものではないと言う点である。その対極に位置する旅行記を書いたマンデヴィルやモンテーニュの思想も又同時代のものであり。すなわち、マンデヴィルはこう問うているのである。「他者を憎み、占有に囚われている時代にあって、驚く能力を毒されないように保つことはいかにして可能か」と。これは私のことであり、あなたのことであり、経済侵略をすすめる大国のことでもある。

魔女:加藤恵子