学魔の本函
『完全言語の探求』を読む!

完全言語

『完全言語の探求』ウンベルト・エーコ


完全言語、それは実は国際平和のためのユートピアを目指すものであったことを今や再び思さねばならない。

悪魔の如き安倍首相を追い詰めるべく連日抗議に走り歩く魔女の私は、本読む時間がない。しかし、学魔から「とうぜん読んでいるんだよなーーーー」と脅しをかけられていた本をやっと読んだ。

訳者の後書きを読むと、そもそもエーコの原書は、フランスの歴史家ジャック・ルゴフを総監修者とする国際共同企画「ヨーロッパの構築」の第一弾として1993年にイタリアで出版され、日本では著名なアナール派のフランス史家二宮宏之氏の監修になる平凡社刊「叢書ヨーロッパ」の第一巻として1995年に出版されたものなのだそうだ。ヨーロッパでは国中心の歴史による国家主体の歴史学を克服するために非常な努力が重ねられていたことは知っていた。本書もその一つの挑戦としての本であるようだ。普遍言語の問題はこれまでも、色々な歴史家が研究書を出されている。普遍言語だけを取り出すのではなく、それに連関するもの、例えば錬金術、カバラー、記憶術、結合術、等を取り上げた書物にはこの普遍言語の概念は必ず含まれている。

『普遍の鍵』パウロ・ロッシ、『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』、『16世紀 フランスのアカデミー、』、『薔薇十字の覚醒』、『記憶術』いずれもフランセス・イエイツ。これらの書物がなぜ16世紀に普遍言語が要求されたのかを現在では理解し得るようになっているが、それは16世紀の混乱したヨーロッパに相互理解を促すための手段としての普遍言語が要求されたと言う点である。この原点は実はエーコが原書を書いた時点もまた同じであった。そして、エーコはそれまでの16世紀に求められた普遍言語の要求の歴史を更に広げて、いわば人類史を見渡して常に求められた夢としての「完全言語」を徹底して分析し、その失敗も(多くは不完全言語として終わっている)提示して見せてくれている。彼自身、この本を書くに当たり、あらゆる本を集めたと書いている。「空想言語、人工言語、マニアックでオカルト的な言語にかんする古書を蒐集してやろうという情熱がわきおこってきて、本書で広汎に参照している私の好事的、夢想的、魔術的、霊的記号論文庫が誕生することになった」。

本書の半分以上を占めるのが、ヨーロッパにおいて求められていたのが、日本人としては理解しがたいが、アダムの言語とはどんなものであったかと言うことなのである。つまりバベルの塔以前に人は神から与えられた(これも又、どんな言語であったかの深刻な研究テーマであったようだ)言葉をはなし、世界の理解に混乱はなかった。それゆえそれを探し求めれば、バベル以前の状態に戻れると言う原言語探求に費やされている。アダムの話した言語こそが「完全言語である」という信念は揺るがなかったようである。そのアダムの言語を求める中で、ヨーロッパはそれに辿りつくための手段として、エンブレム、インプレーサ(紋章のモットー入り図案)――脇にそれるが現在、学生たちの「安保法制」反対運動シールズが図案化した盾がこれだ。彼らは実に歴史を見事に継承しているーー。

象徴(シンボル)、封印等の解読、エジプトの神聖文字(ヒエログリフ)などの秘教的な表意文字に目が向かい、ここに「世界言語」の伝統としてアダムの言語への手がかりとされたのである。たとえばそれはカバラーであり、モーゼ五書についての注解ならびにタルムード「ユダヤの律法とその解釈」に代表されるラビの解釈の伝承がある。重要なのは書かれたトーラーの文面の背後に、創造にさきだって存在し、神から天使たちに手渡された永遠のトーラーを発見することが究極の目的となる。

やがて13世紀になると、多民族、多言語の世界に対する認識が否応なく目の前に現れ、その人種と宗教を異にする諸民族は普遍的に融和するというユートピア概念が生じるが、そこに現れた象徴的な人物とその概念が、ライモンドゥス・ルルスの「大いなる術」である。かれはマヨルカ島出身のカタルーニャー人で、当時マヨルカはキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の三文化が交錯する地であった。かれは青年期に神秘体験をしたことからフランシスコ会に入会している。彼の『大いなる術』は異教徒を改宗させることができるような哲学的完全言語体系を企画した。この言語は普遍的で、言語を分節化し数学的結合術で表記でき、万民に共通の観念体系を普遍的に伝達できるというものである。人種と宗教を異にする諸民族が普遍的に融和するというユートピアはフランシスコ会の思想の恒常素をなしている。ルルスの術が後世の人々を魅了したとき、それは存在するもの、存在するものと原理、存在するものと問題、悪徳と美徳のあいだのきわめて数多くの可能な結びつきを探求する仕掛けであるかのようにうけとられてきた(悪しき神たる善、移り気な反対たる永遠について語るような瀆神的結合を考案していけないことがどうしてあろうか)。

しかし、抑制のない結合術は、可能なあらゆる神学の原理を生み出しかねない。これにたいして、信仰の原理と、しっかりと秩序づけられた宇宙論こそは、結合術の方縦を抑制すべきものであるはずである。ルルスがさまざまな著作のなかでくりかえしのべているところによれば、形而上学が知性の外部にある事物を考察し、論理学が知性の内部にあっての事物のありかたを考察するものであるとすれば、かれの術はその両方の観点から事物を考察するものであるという。かれは自分の術のことを異教徒を改宗するための道具と考えており、ユダヤ教徒の教義とイスラム教徒の両方を永い間研究した。ルルスは自分の術の用語をアラブ人から借用したと明言している。ルルスは、異教徒にも共通する根本的で原初的な諸概念を探求したのである。

そして、自分の仕掛けを、神学と形而上学の問題だけではなく、宇宙論、法学、天文学、黄科学、心理学の問題をもあつかうことのできるものにしようとした。彼の術はますます知識の百科全書にとりくむための道具となっていく。中世のきわめて多くの百科全書から示唆を得ながら、ルネサンスとバロックの文化の時代における百科全書のユートピアを先取りする。ルルスの術が完全言語であるとするならば、それは、その術が形而上学的な実在について語ることができ、それの指示対象である存在、そしてそれとは独立している存在の構造について語ることのできるものであるかぎりで、そうなのである。ルルスの術は、それが伝えようとする既知のものがあらゆる民族にとって等しい内容の宇宙にほんとうに属していたならば、完全言語であろうとすることもできただろう。しかし、現実には、非キリスト教的かつ非ヨーロッパ的な諸宗教から示唆を汲み取ろうと努力したにもかかわらず、ルルスの必死の企図はかれが無自覚のうちにとらわれていた自民族中心主義のために挫折してしまう。(かれが異教の地で拷問死したという伝説は、かれの企図が挫折したことを裏づけている)。それというのも、かれの術が語ろうとする内容の宇宙派、西洋キリスト教の伝統でとりあつかわれる世界の組織化の産物であるからである。

近代世界の黎明期、人々はギリシアの思想、エジプトの象形文字(神聖文字)、さらには、どれも実際以上に古いものと信じられていたさまざまなテクストを発見した。『ヘルメス文書』である。ヘルメス主義の示唆する魔術的―占星術的な宇宙観が支配的となり、天体の地上の事物に影響を及ぼす。その惑星運航の法則がわかれば、すべてが理解できる。とりわけ宇宙というマクロコスモスとミクロコスモスとしての人間の間には感応の関係があるので、星辰の魔術によってこの力のネットワークに働きかけることができる。この星に命令を与える言語が存在する。しかし、さすがに中世の文明もこれを完全言語と考えたわけではなかった。

この時期、後の時代に影響を与えた人物が多く輩出した。ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラ、フィッチーノ、アグリッパ、キルヒャー、ジョルダーノ・ブルーノ、ジョン・ディーなどである。彼らは数秘術、魔術的幾何学、音楽、占星術、記憶術、ルルスの術にの混ざり合った錬金術の著者者として、あるいは魔術的人物として名前を残している。かれらの華々しい活動は、科学的という言葉で現代に置いて切り捨てられているが、実は人間の精神と深く結びついている科学そのものの根底をなすものとして、切り捨てられるべきではないとかんがえる。

完全言語からずずーーと離れてしまったので、強引にUターン。

登場人物でやはり重要なのはコメニウスとライプニッツです。この二人に集約します。

コメニウスは、ジョルダーノ・ブルーノと同時代の人物でフスの改革の神秘主義的な分流であるボヘミア兄弟団の一員であり、薔薇十字会的霊性の世界のなかでー葛藤をともないながらもー活動していた人物で(このことはかれが1623年にチェコ語で書いた『世界の迷宮』が証明している)、イギリスの学者たちの世界における科学的関心とはほとんど共通するところがないようにみえる宗教的欲求に衝き動かされていたしかし、両者のあいだに文化的交流があったことについては、フランシス・イエイツが十分に論証している。
コメニウスのめざしていたものは、汎知主義の伝統の流れにそうものであった。その汎知への志向は、あるひとつの教育学的関心に従事していた。また、人工的な普遍言語のための処方が1668年の『光の道』のなかに見られるが、そこでは、汎知はもはやたんなる教育の方章ではなくなり、世界評議会の監督と指導のもとで一種の哲学的言語である「汎言語」の話される完全状態が実現されるというユートピア的なヴィジョンとして描きだされている。ちなみに、この著作は、コメニウスが30年戦争のさなかにヨーロッパ中を亡命してまわったすえにロンドンにたどり着く1641年以前に書かれており、手稿のかたちでイギリスの文化界に流布したのは確実である。

同著作のなかで、コメニウスは、ラテン語政治上ならびに構造上の限界を乗り越えることのできるような普遍言語について言及している(もっとも、から自身がこの普遍言語を詳細にわたって構築することはついにないままにおわってしまう)いわく、新しい言語は、「それを構成する語彙体系が実在するものの構成を反映しており、単語は明確に限定された一義的な意味をもっており、その内容もそれ専用の表現をもっており、その逆でもあって、内容は空想の産物ではなく、現実に実在する事物であり、余分なものはひとつもない」といえるようなものでなくてはならない。

したがって、ここにはパラドクスがあることになる。かれは、薔薇十字会的な志向をもったユートピアンとして、汎知を探求する。そして、その汎知においては、あらゆる事物が「不動の真理」の調和のもとに相互に結合していて、神の尽きせぬ探求へといざなう。しかしながら、この一方で、かれは原初の完全言語を再発見できるとは信じとおらず、教育学上の理由から有効な人工的方法を探求しようとするため、かれよりもはるかに世俗的な精神をもったイギリスのユートピアンたちがその後におこなうことになる哲学的言語の探求のためのいくつかの基本線を描きだすことになるのである。

ここでめざされているのは、消失した原初の言語の探求ではもはやなく、哲学的原理に支え導かれた人工的な新しい言語、そして、普段に探求されてきたにもかかわらず、完全なかたちで再発見されることはついになくて、どのよのような種類の聖なる言語も調達することが出来なかったものを合理的な手段で解決することのできるような新しい言語の創造なのである。わたしたちは、あらゆる聖なる原初的な言語のうちに、すくなくとも再提起されてきたものを見る限りでは、表現にくらべての内容の完全には限定不可能な過剰を確認してきた。ところがいまや、名称の設定というこれまでになかった行為によって表現と内容の全面的な一致を実現するような科学的(または哲学的)言語が探求されようとしているのである。

大物登場、ライプニッツです。

ライプニッツは、1678年に「一般言語」を作成している。そのなかで、かれは、知識の全体を単純観念に分解して、これらの原始的な観念に数字を割り振ったのち、数字を子音に書き換え、十進法の位を母音に書き換えることを提案した。しかも、ライプニッツは、自然言語が豊かな内容をもっており、また複数存在していることにつねに魅了されており、それらの発生と系譜に多くの研究をささげている。そして、アダムの言語をつきとめることや、ましてそれに復帰することの可能があるなどとはまったく考えず、ほかでもなく他の著者たちが除去しようとしてきた言語の混乱を反対に肯定的なものとしてたたえている。ただし、そうしたなかにあって、ライプニッツを普遍的なコミュニケーション形態の探求へとうながすことができたものがただひとつだけあった。かれをルルス、ニコラウス・クサヌス、ポステルに結びつけているエキュメニズム(諸宗派和解主義)的な情熱がそれである。イギリスの先達や文通相手が、学問上の交流以外にも、なによりも交易と旅行のために役立つ普遍言語を目指していた時代に、反対にライプニッツにはウィルキンズ司教のような聖職者にも掛けていた宗教的情熱が確認されるのだ。ライプニッツの主な職業は学者ではなく、外交官であり、宮廷顧問であり、要するに政治家であって、そうした職業にある者として教会の再統一に賛同していたのだった。(もっとも、それは、スペインと教皇庁をも神聖ローマ帝国とドイツ諸侯をも同時に包括した反フランス的政治ブロックをめざそうとするものであったが)。そこには、真摯な宗教的信条があふれており、普遍的なキリスト教という観念、ならびにヨーロッパの和平という観念が貫かれていた。

しかし、このような多種多様な精神の持ち主たちの和解に達するための方法はなにかといえば、それは、かれによれば、普遍言語をつうじてのものではなかった。それよりもむしろ、真理を発見するための道具となりうるような科学的言語の創造をつうじてのものなのであった。永い間職業としてつとめた司書として、また博学者として、かれは、すでに死滅しつつあった17世紀の汎知への予防と、18世紀になって果実を実らせることになる百科事典への情熱とを、ともに継承しようとした。しかし、しだいに、この構想は、原始的な辞項のアルファベットの探求というよりも、知識の巨大な建築物を制御することを万人に可能にするような実践的で柔軟な道具の製作という形態をとるようになっていく。

ライプニッツの意図は、代数学のように、使用される記号に操作の規則をただ適用しさえすれば、わたしたちを既知のものから未知のものへと導いていくことのできるような論理的言語活動を創造することであった。このような言語活動のもとでは、記号がなにを指示しているかを一歩進むごとに知る必要はない。それは、方程式を解いている最中には、アルファベット文字がどのような量をあらわすのかをしらなくてよいのと同じことである。ライプニッツによれば、論理的言語活動の記号は観念の占める場所に置かれているのではなく、観念の代わりをするのである。普遍記号法は、「推論を助けるだけでなく、それにとってかわる」のだ。最終的にはライプニッツ自身が記号法を真の意味で盲目の計算にむかわせようとする傾向をしめしており、この点でブールの論理学を先取りしていたことは、かれが万物の変化にかんする中国の書物『易経』を発見し、どのように反応したかを見てみればよくわかる。

ライプニッツが中国の言語と文化にたいして関心をいだいていたことは、文献から広く立証される。とりわけ晩年においてそうであった。1697年、かれは『最新シナ事情』を出版した。中国にいるイエズス会士宣教師たちの書簡と論文を収録したものである。この著作は、中国からもどったばかりのジョアシャン・ブーヴェ神父の目にとまり神父は『易経』の64個の卦によって表象されているとかれの考える中国の古代哲学についてライプニッツに書き送った。

しかし、ライプニッツが、二進法算術、すなわち、1と0とによる計算法についてのかれの研究のことをブーヴェに書き送ったところ(ライプニッツはその計算法のもつ形而上学的含意と神と無の関係を表象する力についても記していた)、ブーヴェは、二進法が中国の卦のもつ構造をみごとに説明していることを理解した。そして1701年、神父は卦の配列を刻みこんだ木版を添えて書簡をライプニッツに送っている。ここから、終に出ました、0と1とで表記するという言語への道。真の意味でのコンピュータ言語を先取りしているといってよいだろう。

これが今あるこの世界である。コンピュータによって世界は繋がったが、平和は訪れたか?和平を疎外しているのは言語なのであろうか?根元的問いに立ち戻って来る。他者を知ること。そして自らを提示すること。その基本姿勢に嘘が混在しているとしたら、手を結ぶことはできないだろう。「完全言語」は失敗であった。しかしそれを目指して苦闘した歴史は教えていると思う。機械言語がここまで行きついても、ユートピアには辿りつけなかった。としたら、あらたなユートピアを求めて険しい道を歩きださねばならないと言う事を。ジョン・レノンの「イマジン」が頭の中で鳴り響く。

魔女:加藤恵子