情熱の本箱
朝鮮38度線を越えて引き揚げてきた母子の苦難の記録:情熱の本箱(102)

早野朝子

朝鮮38度線を越えて引き揚げてきた母子の苦難の記録


情熱的読書人間・榎戸 誠

画文集『遥かなる朝鮮38度線――占領下の民衆と母子引き揚げ絵ものがたり』(早野朝子著、平和のための大阪の戦争展実行委員会。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を、特別の思いで読み終わった。著者・早野朝子より14歳年下の私も、中国・上海で生まれ、終戦直前に、母と母の両親に連れられ日本に引き揚げてきたからである。生後間もなかった私にはもちろん何の記憶もないが、母や祖母から引き揚げてきた時の苦労話を聞かされたことがあるからだ。

「私は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の引揚者です。1930(昭和5)年4月、咸鏡南道の咸興で生まれました。・・・終戦を迎えたのは咸興です。・・・1945年8月9日ソ連参戦、15日、敗戦、外地に暮らす日本人にとって、衝撃的なできごとでした。36年間、日本の不当な植民地支配に抑圧された朝鮮人の怒り、滲透していった抗日闘争などに愕然としました。砂上の楼閣だった日本人の生活が、足もとから音をたてくずれ去ったのです。いち早く情報をつかみ逃亡した高級軍人とその家族たち、とり残され呆然自失の一般民間人、極限状況の人間のエゴや脆さ、人の命の何とはかなく空しいことか――を痛感しました」。

「引揚げて、父に、母の苦労を知らせようと、まだ鮮明だった記憶をもとにしてノートに書きました。・・・祖国に帰る事なく、今は異国の土となった人達の心を、お伝え出来たらと思います。また、日本の統治下で、戦争の巻きぞえとなった多くの朝鮮人犠牲者のいる事も、決して忘れてはなりません。今日の平和への礎となられた方達の御冥福を、心からお祈りしたいと思います」。素朴な149枚の絵から、当時の惨状が生々しく伝わってくる。

突如、ソ連軍が進駐してくる。「朝から午后すぎまでに進駐したソ連軍は幾万といわれ、ほとんどが丸刈りの囚人兵だという。私達がまず耳にしたのは、料理屋の戸を叩いた数人のソ連兵に、応対に出た仲居さんが乱暴をされた話だった。思わぬ事態に慄然とする」。「ソ連兵の女探しは、昼夜のべつなく続いた。土足でふみこむと室内を物色した。家族の目前で、平然と乱暴を続けた。その犠牲者は、老婆といわず、小学生といわず、敗戦国の女性には屈辱の嵐が吹きまくった」。

「米、ソの軍事境界線、38度線がしかれた。ソ連軍は鉄道の線路を撤去し、38度線を封鎖した。はやる祖国への望郷の念もむなしく、抑留された日本人に北朝鮮の苛酷な冬は迫ってきた」。「ここ毎日、死人の野辺送りを見ない日はない。一昨日も昨日も、3人、4人と、その数は増していきそうだ。・・・私は毎日、胸のしめつけられる思いで、窓からそれを見送る。・・・私は『死にたくないッ』と思った」。「毎日、毎日、数ます死人。病死、餓死と、筆舌に尽しがたい惨状が始まった。・・・のどをゼーゼーと苦しげにひきつらせて、幼い子ども達が、肺炎、はしか、おたふく風邪と、ひとたまりもない。空腹に声も無く、息たえてゆく。此の無情・・・」。「うち続く惨苦に、遂に力尽き、再び故郷の土をふむ事なく死んでいく」。

38度線まで辿り着くのは並大抵の苦労ではなく、命懸けの逃避行だ。「運よく(汽車から)下車できた人達が集まってみると、かなりの人数になった。班長さんの話あり、これからは徒歩で南下との事。国道はソ連兵やその他の危険が多いため、かくれて行動をするので、かなりの山道や田舎道を歩くという。重いリュックの紐は、早、肩にくいこみ、キリキリと骨にまでひびく。体は前かがみとなり、このかっこうで、一体どこまでいけるだろうか」。「精も根も尽き果ててしまった人達が、とり残されて、道端にぼんやりと腰をおろし、通り過ぎていく私達を見送っていた。年寄りや病人、小さな子ども達をかかえている家族は、次々と落伍して、もう、口を開く気力すら失い、草むらにへたばっていた。一度、気をゆるめると、もう二度と立てやしない。私も小休止の度にリュックを持ち上げる事が出来ず母が手をそえてくれて、やっと立ち上り、ほとんど、気力で歩くといっても過言ではない」。「突如枯れた草むらから、待ち伏せていたらしい朝鮮人の男達が数人、手に手に長いこん棒を振りかざしてパラパラとおどり出ると、日本人めがけて襲いかかってきた。追いはぎだ。逃げそこねた人達は、思いっきり叩きのめされて、なけなしの荷物をとりあげられたそうだ。この時、中年の女の人がひとり、叩き殺されたという事だ」。

「やっと(朝鮮人たちによる)検査が済み、表に出た私達に、思いがけなく、背広の男は、『行けッ』とどなった。が、可愛い年頃の娘さん2人を連れた奥さんに『お前の家族は残れっ』と命令した瞬間、その奥さんは泣き顔になった」。

いよいよ、38度線を越える時だ。。「大人も子どもも、老人や病人さえも、無我夢中で夜道を馳けた。川は目の前だ。南北を分断する一筋の川。この川を間に、1里が国境、恨みの38度線だ。今までも、どれほど多くの人々が脱出をはかり、逆送された事か。ああ、あの橋さえ渡れば、そこは南朝鮮。私達はとき放たれる。突然、列の後の方で来たーっと声がして、悲鳴が上った。部落中でさわがしく吠えたてる犬に、私達の越境は、遂に気づかれてしまった」。「橋までは、まだかなりの距離だ。私達は暗がりの土手をころがるように、なだれをうってすべりおちた。そしてごろごろ石の川原を無我夢中で馳けると、あと先もなく、我先にと川の中へとびこんだ。子どもを背にした案内人の男も、水しぶきをけたてて走る。彼の姿を見失うまいとその後に続いて、私達も必死で走る」。「どんどんと水中へとびこむ。暗がりでは水深もろくに分からず、追われる身の、ただ気ばかりあせって、ごろごろところがる岩や激流に足をとられまいと必死でふんばる。『早くッ、早くッ』と互いに家族の名を呼びあいながら、最後の気力をふりしぼって南の岸をめざした」。「ぬれねずみのままで、次々と川の中から這い上ると、足も止めずに走り続けて、いっきに土手をかけ登った。お互いに無事を確めホッとする。やがて案内人の口から38度線を越えたと聞かされた瞬間、皆声もなく、へたへたと、その場にひざをついて、くずれおれるように坐りこんでしまいしばらく動かなかった。いや、もう、動けなかったのだ。・・・生きる喜びを胸いっぱいに吸いこむ。ああ、南朝鮮の朝が明けてゆく」。

引き揚げ船の中で。「戦争、政治と、庶民には手の届かぬ巨大な力の陰に、幾百万の尊い命が奪われ、私達も今、住みなれた土地を追われて、まだ見た事もない祖国へと旅だっていく」。

戦争は、戦場の兵士たちだけに犠牲を強いるのではない。銃後の人々にも苦難は及ぶのである。この意味で、これは、「戦争ができる国」への傾斜を強める我が国の将来を考えるとき、誰もが手にすべき画文集だ。