学魔の本函
『フランケンシュタインの精神史 シェリーから『屍者の帝国』へ』を読む

フランケンの精神史

『フランケンシュタインの精神史: シェリーから『屍者の帝国』へ』


地球儀を俯瞰するとか豪語するトンデモ総理の日本にも気がつけばつぎはぎの怪物は続々と誕生しているようだ。

学魔高山師が一晩で読んだという絶賛御推薦の本『フランケンシュタインの精神史 シェリーから『屍者の帝国』へ』小野俊太郎著 を読む。

もちろん、大体のところは知っていたが、やっぱりフランケンシュタインと言えば、でかくて、不格好で、縫い目のギザギザという表象である。それは映像からのものであり、原初の読み込みから得られたものではないのをあらためて確認させられたのであるが、作者と作品の概要は、次のようである。

メアリー・シェリーの書いた『フランケンシュタインまたは現代のプロメテウス』が世にでたのは1818年のことだった。1797年生まれのシェリーはこのとき20歳を過ぎていたが、小説のアイデアを得たのは2年前の1816年の夏のことで、場所はスイスのレマン湖のほとりにある館だった。そこは詩人のバイロンの別荘で、シェリー夫妻とバイロンの愛人となったメアリーの義理の妹、他に医者のポリドリがいて、集まったみなで幽霊話を作ることになった。

彼女の夫となった詩人のパーシーは既婚者で、16歳のメアリーは彼と駆け落ちをし、間に出来た子供を流産していた。当時の流行詩人と、高名な知識人夫妻(無政府主義者のゴドウィンとフェミニストのメアリー)のあいだに生まれた娘のとの不倫愛は、スキャンダルにまみれ、イギリスにはおられずに海外に逃げたりもした。

当時のイギリスの最高峰の知性をもつ両親の血を継ぎ早熟だったシェリーは、本人の流産などの体験や該博な知識から、フランケンシュタインの怪物を創造した。「無からではなく混沌から生まれた」と後に述べたのは、体験と知識の多数の素材をつぎはぎすることでこの物語が誕生した事情のせいである。

小野俊太郎が「この本のねらいと構成」においてこう書いている。

「『フランケンシュタイン』のなかにあふれているのは父と子の断絶ばかりではない。家族と悲劇を乗り越えつつ家系がつながっていくのは普遍的な主題といえる。けれどもこの小説に一族が滅亡する「家族悲劇」あるいは理想の親を希求する「ファミリー・ロマンス」の面しか表現されていなければ、これほど大きな影響力は持たなかった。さまざまな親子や、主人と召使、フランス人とアラブ人といった人間どうしの愛憎関係が描かれているだけでなく、人間が生み出した人工生命や機械やシステムをめぐる製造責任さえもが問題となっている。この『フランケンシュタインの精神史』で描き出そうと考えているのは、科学者と怪物を一組のセットにした「フランケンシュタイン」というモチーフや考えが、読み替えられながら、現在までどうして存続してきたのかに関する見通しである」

「『フランケンシュタイン』のなかにあふれているのは父と子の断絶ばかりではない。家族と悲劇を乗り越えつつ家系がつながっていくのは普遍的な主題といえる。けれどもこの小説に一族が滅亡する「家族悲劇」あるいは理想の親を希求する「ファミリー・ロマンス」の面しか表現されていなければ、これほど大きな影響力は持たなかった。さまざまな親子や、主人と召使、フランス人とアラブ人といった人間どうしの愛憎関係が描かれているだけでなく、人間が生み出した人工生命や機械やシステムをめぐる製造責任さえもが問題となっている」

「この本は二部構成をとる。前半は「メアリー・シェリーの遺産」としての『フランケンシュタイン』が提示した問題系の現代的な意義を検討する。つぎはぎの身体と主体の関係、人間の知性や労働の複製、母性をめぐる解釈、さらに帝国や共和国やナショナリズムまで、矛盾の書と呼びたくなるほど多彩な課題がそこには眠っている。20世紀の製造物責任の議論との関係や、家なき子としての怪物の単独性の在り方・・・後半は、ギリシア神話でのプロメテウスがゼウスに逆らって火をもたらした巨人族であることを踏まえ、日本の戦後SFの広い分野を見渡して話を進める」

かなり壮大なテーマである。フランケンシュタインがそんなに後世に影響を与えていたとは、実は全然考えていなかった。とくに日本のSFとの関係は全く無知で、我ながら恥じ入るばかりであった。しかし、第一部の方は非常に興味深かった。高山師から常々言い聞かせられている事、それは作品がある時代の総体の中から書かれている事を知らなければならないと言う事。科学や技術、新しい発見、政治そういうものとの連関を捉えなければ文学の理解など意味がないということである。フランケンシュタインが書かれた時代とはつまり、ピューリタン革命により王が不在であった期間から、王政復古によってイギリスの共和政は終わりを遂げ、フランスではフランス革命がナポレオンの独裁となってゆく時である。18世紀、おそらくは1790年代が舞台で、ナポレオン戦争とウィーン会議後のヨーロッパの状況や混乱を背景にした作品なのである。

一方この時代、自然哲学の中にニュートン力学が入り込み、決定論的な考えが根づいていく。実はニュートン自身は錬金術に造詣が深く、その点でわれわれはニュートン力学の表層だけを見ていては科学の本質を見誤りかねないのであるが、イギリスの進歩主義の勝利によりニュートンの非理性的部分は覆い隠されていて、シェリー自身が革新的な両親や奔放な自身の生き方をみればニュートンの新しい科学の面に軸足を置いていたことは当然と言える。

また、旅の描写が頻々と出て来て、その旅はイングランドからスコットランドへの旅には共和政擁護、イングランド批判がかいま見られたり、脇役の一人はノルウェーの捕鯨船に乗ってロシアを訪れる。しかし現実には、怪物を追いかける主人公は怪物が移住すると考えたタタールの地も、南米もインドも、実は手の届かない外部でしかない。

勿論、最大の問題点は怪物の創造であるが、その点について、「へそ」の在りなしによって論じられている事に意表を突かれた。へそがないと言う事は、母体から生まれたものではないから当然なのだが、生命創造の起源をめぐる神学論争にまで至ると言うわけである。つまりアダムにへそがあればアダム以前に人間が存在したことになり不都合である。しかしアダムにへそがなかったら、神は不完全な人間を作ったことになり、神の無謬性が揺らぐ。その上アダムが神の似姿だとすると、神にもへそがあるという結論になる。こんあことを19世紀後半にはイギリスで大論議されていたとは、キリスト教というのは変な所が厳密なのかと思ってしまうのである。そして怪物は当然へそがない。その上、なぜか男のようである。そこから、怪物をつくったヴィクターと怪物との「父-子」関係として読むと言うわけであるが、ここでフェミニ済み理論からは批判が出ているようである。ヴィクターは怪物を作ったという点で「母―子」が出てこないことがおかしいというわけである。とわいえ、キリスト教精神を批判する意味で怪物創造を意図して書かれたとは言えそうもなく、むしろキリスト教的男権主義の根強さを感じてしまう。

この時代の社会相から読みとれる各種の問題は、各方面に及び、改めて歴史との関連を考えさせられた。たとえば舞台となっているスイス(つまり作者メアリーが駆け落ちしていた所でもある)はジャン・ジャック・ルソーとの関係が注目される。ルソーには言語起源論や社会契約論があり、怪物が言語を習得すること、また怪物が母性を求める裏にあるのがルソーの教育論なのだそうだ。また人口統計がなされた時代、人間の複製と言う概念が何も意味しているかがとても意味があるsじ、逆にラダイット(機械打ちこわし)運動は機械嫌悪をその精神構造に持っていたときに、この怪物は教育された機械なのか、いわば各種の境界線上にある存在と見てとれる。もっとも興味を持った論点は製造物責任論と言う視点であった。怪物を作った責任はだれが取るのか、誰が負うのか?実は今私は原発メーカー訴訟というのに原告として参加しているのだが、大体原作の題名が『フランケンシュタインまたは現代のプロメテウス』というのだし、いまや制御できない火となった原発とプロメテウスの神話はもろにリンクする。原発製造物責任は誰にあるのかと問うているのだが、メアリーには共和主義への志向性があった点は前に述べたが、今私たちは、「NO NUKES権」という権利の主張を組み立てているのだが、これは怪物の製造者責任が論じられた時、私の頭をよぎったのはイメージの類推である。

第二章の戦後日本におけるフランケンシュタインは手も足も出なかった。鉄腕アトム、鉄人28号位しかわからず、そればかりかSFとの関連性についても、その博覧強記に驚いたが、この分野がお好きな方は、見事な論の展開を読んでいただきたい。

なぜ、学魔高山師が激賞したのかは「フランケンシュタイン」がつぎはぎの身体であったように、その後の作品が見事にこの点を展開点にしていることを筆者が見切っていると言う事ではないかと思われる。すなわち、日本では荒巻義雄が典型として取り上げられているが、組み合わせ術(アルス・コンビナトリエ)への偏愛と、美術においての「手法」である「マニエリスム」に反応していえ、『白き日旅立てば不死』においてはダスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』が種本であるという指摘。そうなのか。

そして『屍者の帝国』です。

読みましたよ。凄い詰まってるなーという印象でした。そもそも、伊藤計劃と円城塔の合作で評判になったのであるが、円城塔のペンネームがもろに凄いよ。円形の城で塔があるって、ボルヘスも真っ青、サドも驚く、薔薇の名前なんかどうしたと言うぐらいの驚きだった。その円城は『屍者の帝国』で「死よ驕るなかれ」で始まるジョン・ダンの「聖なるソネット」を持ち出して、形而上学詩とモダニズムを導入してみせた。さらにピコ・デラ・ミランドラのようなカバラ主義とオカルト思想を持ち出して、ヴィクターの通ったインゴルシュタット大学のバヴァリア啓明結社とつなげる。しかもそれは産業と科学をつなげるルナ境界とも関連をもつことになる。王立協会の前身の組織がひそかな陰謀をもっていたという一種の陰謀史観のように『フランケンシュタイン』を背後で支えている知的な水脈が明らかになっていく。ダン・ブラウンのフリーメイスンを扱った『ロスト・シンボル』とも共通する関心がそこにある。

これってもろに学魔高山師のフィールドです。私は実はそこまでは読み切れていなかった。その事を恥じている。もう一度読まなくっちゃ。

小野の結論を引いておきたい。

『フランケンシュタイン』という小説が持つ魅力と呪縛はそこにある。それぞれの作家や表現者が自分たちが恐れる怪物を次々と描き出して来たのは、「物語とはなにか」という問いかけと直結するせいなのだ。各時代や社会や環境によって、怪物の現れ方形成が変わってくる。『フランケンシュタイン』の底に創造をめぐる神話が隠れているわけだが、作家や表現者たちは、自分が創造神のように無から作ることはできないとわかっている。他人とは異なる物語を作りたいと思いつつも、語彙や物語のパタンや表現において、過去の遺産を利用しなくてはならない。だからこそ作家たちはジレンマに陥り、創造神話に呪縛される。シェリーがミルトンの『失楽園』や旧約聖書のなかに起源の神話を見つけて取り込んだように、他とは違うオリジナルを目指す作家にとって、つぎはぎの身体から生命を再創造する『フランケンシュタイン』の設定はとても魅力的なのだ。今後も状況に応じて怪物の話が新たに語られるだろう。

学魔高山師のように一晩では読み切れない、どころかかなりの時間を要したが、刺激的で、そうだったのかという発見のある本である。是非お読みください。怪物はあなたの背中に振り返るのを待っていますよ。

魔女:加藤恵子