情熱の本箱
アンネは、性に目覚め、母親の悪口も言う普通の少女だった:情熱の本箱(108)

アンネ

アンネは、性に目覚め、母親の悪口も言う普通の少女だった


情熱的読書人間・榎戸 誠

『アンネの日記 (文春文庫)』(アンネ・フランク著、深町眞理子訳、文春文庫)は、いろいろなことを教えてくれた。『アンネの日記』には、元々、アンネ・フランクが自分用に付けていた日記と、戦後に出版する時に備えて清書していた日記の2種類が存在した。戦後、アウシュヴィッツから一家の中で一人だけ生還した父、オットー・フランクは、娘の願いを叶えるべく、2つの日記を編集して出版する。これが世界中で読まれた『アンネの日記』で、私が若い時に読んだのもこれであった。ところが、オットーは編集の際に、アンネが母親への不満を漏らしている部分、「隠れ家」の同居人に対する不平の部分、性の目覚めに関する部分を削除していたのである。今回、手にした「増補新訂版」には、上記の削除部分が含まれているだけでなく、1998年に見つかった日記の断片も加えられている。

13歳の時から15歳まで書き続けられたアンネの日記は、1944年8月1日(火)で終わっている。この日の日記では、自分の性格・行動を客観的に分析していて、彼女がなりたいと望んでいたジャーナリスト、作家としての資質を遺憾なく発揮している。

同年の5月11日(木)の日記に、こういう記述がある。「あなた(キティー=日記帳の愛称)もとうからご存じのとおり、わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になることです。はたしてこの壮大な野心(狂気?)が、いつか実現するかどうか、それはまだわかりませんけど、いろんなテーマがわたしの頭のなかにひしめいてることは事実です。いずれにせよ、戦争が終わったら、とりあえず『隠れ家』という題の本を書きたいとは思っています。うまく書けるかどうかはわかりませんが、この日記がそのための大きな助けにはなってくれるでしょう」。

最後の1つ前の日記は、7月21日(金)に書かれている。「親愛なるキティーへ やっとほんとうに希望が湧いてきました。ついにすべてが好調に転じたという感じ。ええ、そう、ほんとに好調なんです! すばらしいニュース! ヒトラー暗殺が計画されました。しかも今回ばかりは、ユダヤ人の共産主義者がたくらんだのでも、イギリスの資本主義者がたくらんだのでもありません。純血のドイツ人の将軍、おまけに伯爵で、まだかなり若いひとだそうです。『神の摂理』か、(ヒトラー)総統の命に別状はなく、あいにく被害は軽いかすり傷と火傷だけですんだとか。同席していた数人の将軍、将校らのなかから死傷者が出、計画の首謀者は射殺されたとのことです。いずれにせよこの事件は、ドイツ側にもいまや戦争に飽きあきして、ヒトラーを権力の座からひきずりおろしたがっている将軍や軍人が、大勢いることを物語っています。・・・あいにく、状況はまだそこまでは進んでいませんし、現在いちばん好ましくないのは、いまからすばらしい事態に期待をかけすぎることです。とはいえ、いまお話ししているこの話、そのまますべて真実だということは、きっとわかってくださってますよね。きょうばかりはわたしも、現実ばなれした理想についてしゃべってるんじゃありません」。アンネは、クラウス・シュタウフェンベルク陸軍大佐らによるヒトラー暗殺事件を知り、いよいよドイツ占領が終わる日も近いと期待に胸を膨らませている。

ところが、最後の日記が書かれた3日後、オランダ・アムステルダム市プリンセンフラハト263番地の「隠れ家」に潜んでいた、アンネを含む8人のユダヤ人の存在は、遂にドイツ秘密警察に突き止められ、8人は逮捕され、連行されてしまうのである。

1942年10月3日(土)の日記。「とにかくママには我慢がならないんです。ママの前では、ただただ自分をおさえて、毎度荒い言葉で言いかえしたりしないよう、辛抱しなくちゃなりません。そうでもしないと、ついママの横っ面をひっぱたきかねませんから。どうしてこんなにまでママのことが嫌いになったのか、自分でもさっぱりわかりません。パパは、ママの気分が悪いときとか、頭痛のするときには、おまえもすすんでお手伝いぐらいしたらどうだ、そう言いますけど、わたしはごめんです。ママのことは嫌いだし、とてもそんな気にはなれませんから。パパのためだったら、いくらでもやってあげられるんですけど。このことは、パパが病気になったときにはっきりわかりました。それに、いつかママが死ぬときのことだったら、たやすく想像もできますけど、それがパパのこととなると、いつかパパが死ぬなんてこと、とても想像できません。ずいぶんひどい言い草ですけど、これは本音です。ママにはぜったいにこれ、見せられませんよね。『これ』も、あるいはほかのどんな記述も」。

1943年4月2日(金)には、こう記されている。「わたしにそういう態度をとらせたのも、もとはといえば、やっぱりママなんです。ママの無遠慮な批判や、わたしにはちっともおかしくないへたくそな冗談、そういったものが積み重なって、ママの愛情に感動する心をわたしから奪ってきたんです。ママのきつい言葉を聞いて、わたしがたじろぐのとまったくおなじに、ママもまた、わたしとのあいだの愛情が失われたのをさとって、その事実に傷ついたってわけです」。

母に対する不満・悪口は、日記のあちこちに、しょっちゅう顔を出す。時には、母と仲よくしなくてはと反省するのだが、長続きしない。

姉・マルゴーに対しても辛辣である。「マルゴーのことは、鼻持ちならないとしか言いようがありません。昼も夜も、神経にさわりっぱなし。もううんざりです」。

1944年1月6日(木)の記述。「愛するペーテル(ペーター)。いままでこれほどはっきりと彼のイメージを心に描いたことはありません。写真なんかいらないほどです。目の前にこれほど鮮明にその姿を思い浮かべることができるんですから」。これ以降、同居しているファン・ダーン家のペーターに対する少女らしい揺れる恋心が綴られていく。

「じつをいうと、きょうのわたしは、いまだに完全に心が揺れ動いています。けさ、パパにキスされたときなんか、『ああ、もしかしてこれがペーテルだったら!』なんて叫びだしそうになったほどでした。たえず彼のことだけを思い、一日じゅう胸のうちでくりかえしています。『ああペーテル、大好きな、大好きなペーテル・・・』って。・・・わたしが不幸なのは、ペーテルの気持ちがいまもわたしのうえにはないだろうってこと、それを認めなくちゃならないからです」。

「ペーターは、ほんとに愛すべきひとです。いつになったら、このことを彼に言えるようになるでしょう。ただし、向こうもこちらをそう思っていてくれれば、ですけど」。

「そのうちぜひペーターに訊いてみたいんですけど、彼は女性のあそこが実質的にどんなふうになってるか、知っているでしょうか。わたしの思うに、男性のあそこは女性のほど複雑じゃないようです。写真だの絵だので、裸の男性のようすは正確に見ることができますけど、女性のは見ることができません。女性の場合、性器だかなんだか、呼び名はなんだか知りませんけど、その部分は両脚のあいだの、ずっと奥にあります。おそらく彼も、そんなに近くから女の子のそれを見たことはないでしょうし、じつをいうと、わたしもありません」。

徐々に、アンネとペーターの関係は親しさを増していく。4月14日(金)には、こんな記述が見られる。「ここでは、ときとして感傷的にならずにはいられないこともあるんです。たとえば、ペーターとふたり、ごみやおがくずの山にかこまれて、かたい木の梱包ケースに腰をおろし、おたがい肩に腕をまわして、ぴったり寄り添いながら、彼がもう片方の手でわたしの巻き毛をもてあそぶようなとき。あるいはまた、外で鳥たちがさえずり、木々が新緑に萌え、紺碧の空からは、太陽がわたしたちをさわやかな戸外へといざなうようなとき。そんなとき、ああ、そんなときこそわたしは、あふれるほどの願望を胸にいだくのです」。

そして、4月16日(日)の日記。「だれよりも親愛なるキティーへ きのうの日付けを覚えておいてください。わたしの一生の、とても重要な日ですから。もちろん、どんな女の子にとっても、はじめてキスされた日と言えば、記念すべき日でしょう? だったら、そう、わたしにとっても、やっぱりだいじな日であることは言うまでもありません」。ペーターは17歳、アンネは間もなく15歳を迎えようという恋に憧れる年頃である。

4月28日(金)には、「彼が近づいてくると、わたしはその首に腕を投げかけ、左の頬にキスしました。そのあと、右の頬にもキスしようとしたとき、くちびるが彼のくちびるとぶつかり、そのまましっかり重なりあいました。激情にもてあそばれて、ふたりはもう二度と離れまいとするように、何度も、何度もかたくいだきあいました」と、二人の恋は重症化する。

しかし、やがて、アンネの心の中に疑問が生じてくる。6月13日(火)の記述。「たしかにペーターはわたしを恋人としてではなく、友達として愛してくれていますし、日に日におたがいの親密の度は増しています。でも不思議なことに、なにかがわたしたちのあいだをへだてているんです。これはいったいなんなのでしょう? 自分でもわかりません。・・・たしかにペーターはいいひとですし、愛すべきひとでもあります。でもそれでいて、彼に失望させられる面も多々あることは否めません。とりわけ、宗教を嫌っていること、食べ物とか、そういったもののことばかり話題にしたがること、このふたつにはどうしてもなじめません」。

この溝はさらに深まっていく。7月6日(木)には、「近ごろペーターはいくらかわたしに頼るようになっていますけど、こういうことは、たとえどんな事情のもとでも、ぜったいにあってはならないことです。自分の足で立つことは、もともとむずかしいことではありますけど、それよりももっとむずかしいのは、確固たる人格と精神とをもって自立しながら、つねに自分自身に忠実でありつづけることです。・・・わたしには、働くのが嫌いなひとの気が知れません。といっても、ペーターがそうだというのではなく、彼の場合は、たんにまだはっきりした人生の目標が定まらず、自分はばかで劣等生だから、なにひとつ成し遂げられないと決めこんでいるだけなんです。気の毒に、他人をしあわせにしてあげるというのが、どんなにすてきなものかも知らず、かといってわたしからそれを教えてあげることもできません」と、嘆いている。

最後から3つ目の7月15日(土)の日記が、ペーターに関する最後の言及となる。「わたしは心に彼のイメージをつくりあげていました。愛と友情とを必要としている、おとなしく、感受性の強い、愛すべき少年というイメージを。わたしは自分の心情を吐露できる相手として、生きた人間を必要としていました。わたしを助けて、正しい進路にのせてくれる、そんな友達をもとめていました。ペーターによって、そのもとめていたものをわたしは得ると同時に、徐々にではあっても確実に、彼を自分のほうへひきよせてきたんです。・・・いまの彼は、すっかりわたしに依存しきっていて、さしあたり、そんな彼をつきはなす方法も見つからず、自分の足で立たせるくふうもつきません。彼がわたしの考えているような友達にはなれそうもないと気づいたとき、わたしはせめて彼をそういう視野の狭さからひっぱりだしたい、彼の若さという限界をひろげさせたいと願ったんですけど」。遂に、賢いアンネは恋の結晶作用に気づいてしまったのだ。

この増補新訂版を読んだことで、今までよりも、アンネをずっと身近に、いとおしく感じられるようになった。