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チャップリンとヒトラーの壮絶な闘いの勝者はどっちだ:情熱の本箱(111)

チャップリン

チャップリンとヒトラーの壮絶な闘いの勝者はどっちだ


情熱的読書人間・榎戸 誠

『チャップリンとヒトラー――メディアとイメージの世界大戦』(大野裕之著、岩波書店)は、4日違いでこの世に誕生した二人――チャールズ・チャップリンとアドルフ・ヒトラー――の息詰まる闘いを、映画『独裁者』を中心に据えて描いている。

「チャップリンはユダヤ人ではない。しかし、みずから積極的にそのことを発言することはなかった。『ユダヤ人かどうかについて答えることは反ユダヤの術中にはまる』というのが彼の持論だった。同時に、ユダヤ人かどうか問われたときのチャップリンの答えは、極めて洗練されている。『私はユダヤ人じゃないよ。でも私の中のどこかにユダヤ人の血が混じっているんじゃないか、とこれは希望なんだが、そう思いたいね』」。

チャップリンは、なぜ『独裁者』を製作しようと思ったのだろうか。「『戦争の気配がふたたびただよいだした。ナチスが隆々と伸びていた。それにしても、第一次大戦とあの死の苦しみの4年間を、なんと早く忘れたものか』――チャップリンは、『独裁者』を製作する前の世相をこんな風に回想している。人々は過去の戦争を美化し、流行歌は第一次大戦中に兵士たちが『花のパリ』を見たことを面白おかしく歌い、戦争が『産業を発展させ、技術を進歩させ、人々に新しい仕事を与える』と利点を説くものもいた。『株式市場で何百万ドルがもうかるときに、誰が何百万という死者のことなど考えていられるか』というわけだった。チャップリンはそんな風潮に危機感を覚えていた」。

「まずもって、『独裁者』の構想は、『チャップリンとヒトラーの容貌が似ている』という事実――世界でもっとも愛されている喜劇俳優と、もっとも憎まれている独裁者とが瓜二つであるという、歴史的な皮肉がすでに含まれている事実から出発している。ヒトラーのパロディを演じることで、『ナポレオン』で試みた独裁政治の風刺と平和へのメッセージをより具体的に発することができる。もう一つ、チャップリンが『独裁者』を製作する決め手の一つとなったのは、『チャーリーのキャラクターをどうするか』という大問題の解決が見えたからでもある。・・・『独裁者』は、希代のキャラクター『チャーリー』を、トーキーという新時代に順応させる理想的なアイディアだったのだ」。

これに対し、米映画界やナチスはどういう反応を見せたのか。「海外市場で利益をあげている映画界は、チャップリンの勇気を評価しながらも、上映禁止の被害が自分たちに及ばないように、触らぬ神にとばかりにヒトラーの話題を避けており、紙面は驚きと困惑で埋め尽くされたわけである。『金持ちで、独立していて、民主主義への誠実な十字軍の一員たるチャップリンは、喜んで損失を被りたがっている。大会社はそんなことはしない』。他方、『独裁者』製作の一報を聞いて、ナチスはチャップリン攻撃をさらに強めることになる」。従来からチャップリン攻撃に熱心なナチスであったが、『独裁者』製作の噂が出始めると、いよいよ国を挙げての妨害工作にのめり込んでいくのである。

「『独裁者』製作中、ドイツによるチャップリン攻撃はますます過激になっていった。・・・形勢は巨大な海外市場を握っているナチス側に分があった。『クーリエ』誌は、チャップリンの次回作に関する問題のせいで、アメリカ映画の売上が落ちることが見込まれ、映画への資金提供者らが困っていると、誇らしげに報道した。『独裁者』製作に対するヒトラー本人の反応の記録がある。1939年1月30日の国会演説において、ヒトラーは『反ナチス――すなわち、反ドイツ映画の製作を企画しているというアメリカ映画会社の声明は、ドイツにおける反ユダヤ映画の製作を誘発するものでしかない』と批判した。名指しはしていないものの、明らかに『独裁者』に関して述べたものであり、恐らく、ヒトラー本人からのチャップリンに向けた唯一残っている言及である」。ドイツ、イタリアからの攻撃は想像に難くないが、アメリカのみならず、チャップリンの愛する母国、イギリスからも圧力がかかっていたのである。

「本国アメリカにおいても、制作中止を求める声が日増しに強くなった」。一本の映画に対して、かように激烈な妨害キャンペーンが行われたことは驚くべきことだ。

しかし、「チャップリンは着々と準備を進めていた。・・・リアリティを大切にしたチャップリンらしく、(映画の)ゲットーの住人はチャップリン本人を除いてすべて、ユダヤ人俳優から選ばれている」。

1940年3月の本撮影終了後、編集に没頭していたチャップリンは、4月25日以降、主人公の演説の再検討に取りかかっていた。この時、チャップリンは最悪の知らせを聞くことになる。「5月10日に、ドイツ軍は西部戦線の総攻撃を開始した。チャップリンはその時の衝撃を『自伝』に記している。『突然、大破壊がはじまったのである。ベルギー侵入、マジノ線崩壊、おそるべきダンケルクの厳しい現実――そしてフランスは占領されてしまったのだ。ニュースは日を追って暗くなるばかり』」。ドイツの戦果だけでなく、ソ連でもスターリンが『独裁者』の上映を許可しない決定を下したと報道され、いよいよ主要国全で上映の見込みが立たないという異常事態になっていたのである。

しかし、チャップリンはへこたれない。「フランスが降伏した翌日、チャップリンは闘いを再開する。長い編集作業と演説の推敲の果てに、1940年6月23日に、チャップリンはほぼ3ヶ月ぶりに撮影を再開した。制作開始からすでに458日が経っていた」。翌24日、チャップリンはたった一人でラストの演説の撮影に臨む。この時、チャップリンとヒトラーは真っ向から闘っていたのである。「1938年秋に構想して以来、1年8ヶ月にわたって1000枚以上書き直した演説が、ついに撮影に至った。・・・(6分間の)演説の部分だけで、合計4日間撮影し、平和への祈りをフィルムに焼き付けた」。

漸く上映に漕ぎ着けた『独裁者』は、観客にどう受け止められたのか。「右派からは共産主義的と攻撃され、左派からは生温いセンチメンタリズムと批判され、映画批評家にはキャラクターにあっていないと酷評された演説だったが、チャップリンは署名原稿を発表し、『演説はストーリーから導かれる論理的なエンディングであり、あの小さな床屋がなした、いや、しなければならなかったものだ』と反論した。ほどなくして批評家たちの斜に構えた反応は、観客の感想とはかけ離れていたことが明らかになる。というのも、観客はそのシーンに、『毎回、耳が聞こえなくなるほどの拍手』を送り、新聞の投書欄には演説に感動した声が多数掲載されたからだ。演説は大衆の愛する名文句となり、10月23日付の『ヴァラエティ』誌を皮切りに、多くの新聞・雑誌に全文が転載された」。

チャップリンは、ロンドンのデイリー・メイル紙の取材にこう答えている。「『演説において、私は単に、軍国的な、野蛮な者に抗して話す人道主義者なのです』と言い、『いくつか脅迫の手紙は来ましたが、たいしたことありませんでした。とくにガードマンも要りません』と危険にさらされていることを隠して気丈に述べた。そして最後に、『何が起ころうとも、全体主義は続きません。ヨーロッパでは、それは過ぎ去った一時期です。それは存続しえない――存続することはない。究極的に、大切なのは個人なのです――そして、私は個人というものを信じています』として、次の言葉で締めくくった。『頑張ろう! 大丈夫だ!』」。

「『独裁者』は、1941年2月末の時点で、世界中で3000万人が見たという世界的大ヒットとなり、チャップリンとヒトラーの『世界大戦』は喜劇王の圧勝に終わった」。

「チャップリンによる『独裁者』ラストの演説を境に、ヒトラーの演説は激減するのである――あたかも、喜劇王が希代の演説家から、その武器を奪ったかのように。・・・ヒトラーは、イメージという武器を失い、『独裁者』によって世界中で笑い者にされたことで、リアルな戦場での敗北より先にメディアという戦場からの撤退を余儀なくされていた」。

こういう海外の人物を扱った、読み応えのある作品が、日本人の手で書かれたことを誇らしく思う。

巻末に「『独裁者』結びの演説」の全文が掲載されている。その一部を紹介しよう。「今も、私の声は何百万という人々に届いている。何百万もの絶望する男や女、そして小さな子供たち、人々を拷問し罪なき者を投獄する組織の犠牲者たちに。そんな人々に言おう、絶望してはならない、と。今、私たちを覆う不幸は、消え去るべき貪欲、人間の進歩の道を怖れる者の敵意でしかない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶える。彼らが民衆から奪い取った権力は、再び民衆のもとに戻るだろう。人に死のある限り、自由は決して滅びることはない。・・・けだものたちもそんな約束をして権力に上り詰めた。だが、彼らは嘘つきだ! 彼らは約束を守らない。絶対に守ろうとしない。独裁者たちは自分たちを自由にし、民衆を奴隷にする。今こそ、あの約束のために闘おう! 世界の解放のために闘うんだ。国同士の壁を取り除くために、貪欲と憎しみと偏狭を取り除くために。理性ある世界――科学と進歩がすべての人々の幸福へと通じている、そんな世界のために闘うんだ。兵士たちよ、民主主義の名のもとに、持てる力を集めよ!」。

演説の全文をじっくり味わった後は、『独裁者』のDVDを見直すことにしよう。