魔女の本領
そんな時に、わたしは出会ってしまったのだ…

秋元松代

『劇作家 秋元松代 荒地にひとり火を燃やす』


今は2017年7月である。あるいは後世からみると、混乱の中へ日本が雪崩をうって崩れて行く日々として、記されるかもしれない。信じがたい頽廃と反知性の政治に抗うことで、私自身の存在を確めなければならない、そんな時代が来るとは思わなかった。48年前、私は政治の季節が激化し、やがてそれが収拾のつけられない分裂へと傾斜していったその頃、滑稽に見えるかもしれないが大・政治よりは組合活動から、つまり底辺から社会正義を実現するという馬鹿ではあるがそれなりの思想と手段をもって闘いを初めていた。そんな時に、わたしは出会ってしまったのだ。

秋元松代。その演劇はそれまでのアングラ演劇とはちがうけれども、心揺さぶられた。

『劇作家 秋元松代 荒地にひとり火を燃やす』山本健一著 を読む。

私は秋元に引きつけられたことの不思議な因縁は実はなかなかに幻想的だ。本書を読む以前には秋元の経歴について全く興味もなく、私の秋元は『近松心中物語』の作者である。その周囲の作品については演劇として見ることは実はなかったのだ(後、テレビドラマは見た)。『近松心中物語』は1979年初演である。なぜか時間と日時にずれがあるのであるが、私はこの作品について、上演以前に知っていた。それは組合運動のために職場で厳しい差別に晒されていた時に、週一回講師でみえられていた当時はまだ「ハーメルンの笛吹き男」が出版され、一気に有名になられる前、まだ一橋大学に就任される以前、たしか東京経済大学におられた西洋史の阿部謹也先生がわたしの苦闘ぶりを見ておられて、秋元さんのことをふと話された。私は秋元の名前は知っていたし、「七人みさき」も「かさぶた式部考」、「常陸坊海尊」も読んでいた。この辺の記憶が定かでないが、シナリオライターになりたいと思っていたことと関係するのかもしれない。すると阿部先生が、発売前の秋元さんの芝居の挿入歌になるという森進一の歌のテープを下さった。その中には『近松心中物語』で使われた森進一の歌った数曲が入っていて、後に有名になる「それわ恋」もあった。私は母の介護と職場のいじめの中で自分を支える歌にし続けたのであった。その後、もう一度、阿部先生から、秋元さんの新作(それが何だったのかは今では分からない)の本読みを見せてあげると誘われた。楽しみにしていたが、作品が出来上がらないと言うことでこれは実現しなかった。こんな不思議な縁があり、『近松心中物語』は初演を見た。平幹二郎と太地喜和子、市原悦子が忘れられない。

評伝と言うものの困難さを本書で改めて思い知った。山本健一がどれほど努力をして秋元にせまろうとしても、読者にとっては己の思う秋元の像が表現されて、浮かび上がらなければむしろ読まない方が良かったと思えて来るからだ。さらに、本書が秋元の演劇の分析から秋元の資質を把握しようとした部分と、日記に依拠したいわば独白から見極めようとした部分の継ぎ目が成功していない。さらに文章の流れをたちきるように、体言止めの多用が鼻につく。また許し難いと感じたのは作品名を省略していることがいかにも尊大な感じを受けた。たとえば「常陸坊海尊」は「常陸坊〜」のように。題名は劇作家の腕の見せ所であろう。それを省略する筆者になぜか怒りの鬼であった秋元さんには見せられないと言う思いを抱いた。

秋元さんの生い立ちについて、初めて知ったことは、妹一家が広島で被爆死していたということ。兄が共産党員で治安維持法で検挙されているということである。そのような環境から秋元は邦文タイピストとして早くから働くことになり、終生自ら学歴がないことをひとつの欠点のように述べることになった。しかし小学校の成績は優秀であったということで、戦時中防空壕で近松を読んだことが後に秋元の頂点を極める作品の出発点ともなっている。本書には劇作のあらすじが書かれた部分も多く、それはそれで興味深いと言えなくもないが、劇作品はいわば生もので、見る者がどこに心情を投入するかによってあらすじは決まるのだろう。そのあたりの本書に没入できないきらいはあった。個々の作品については今は『秋元松代全集』が刊行されているので、確認していただきたい。

秋元が一貫して書き通したのは下層の人々であったことは間違いないであろう。これを山本は柳田国男に影響を受けた常民としているが、余りにも認識が浅すぎないか?柳田についても水田稲作農民の世界としての常民の認識から、それ以前の遊動的狩猟採集民(山人)(ノマド)へと深化した民俗学こそを秋元は見通していたと考えるべきだ。秋元の民衆とは農民に差別され、排斥され、それでもなおかつ聖化される遊行の民であり、売られて、娼婦となり、遊女となった女たちであったことをより深く認識すべきだと思う。また秋元の作品の多くが単なる歴史劇ではなく史実と現実が重層的に重なり、悲劇を昇華させるために民衆が伝説や説話や念仏、そして江戸時代には浄瑠璃による語りに涙して祈るその心模様を現代に再現したことである。「常陸坊海尊」について花田清輝は次のように評したという。

「寄る辺なき人たちに秋元の眼は届いている。日本の底辺、根っこを見ている。これまでの新劇の視線は全部外国だった」と。

非常に印象的なエピソードは言葉の問題である。秋元は方言を使った印象深い作品が多いのであるが、それは設定した土地の本当の方言ではないのだそうだ。まず実際の方言を理解する。その先にみずから方言辞典を作り作中人物に語らせているのだという。秋元は次のように書いているという。現代には特質すべき点だと思う。

「日常、その人たちが使っている言葉というものは、非常に深い歴史的背景がある。しかも、大変重い生活の歴史というものが含まれている。例えば『常陸坊〜』『かさぶた〜』を書く場合は、私は東北人になりかつ九州人にならなければ書けないと自分では思う。その手がかりは方言。方言、言葉から入っていく以外に、私には手段はない。それは最も的確な一つの入り道だと信じている。民衆が日常使っている生活語である方言は実に含蓄が深い。その方言一つの意味が分かることによって、その地方の人たちの生活感情、そして日常的な生活のニュアンスのほぼあらましが、想像できる。

今はテレビ用語が標準語にされている。とんでもないこと。日本の方言の中には大変美しい言葉が無数に存在している。それを中央の都会にいる支配的立場の人がどうして抹殺していくのだろうか。明治政府以来の役人政治における言語統制がいまだに行なわれている。ということはその地域にいる人間を無視している。ひどい話です。民衆の生きた言葉を尊重しない限り、民衆をとらえることは不可能。方言には歴史が風土が、生産形式がかかっている。そのようなものをもっと繊細に、こまかく念入りに認識する必要がある」

秋元の頂点は67歳に訪れる。蜷川幸雄との出会いである。新劇に作品を提供しながら仲間内だけにしか通用しない演劇にほとんど絶望していた秋元はリアリズムを脱しかつ古典劇の演劇体系の様式も崩しながら、民衆に近づける演劇を模索していた中根さん(とあるが中根とは誰なのかが分からない)、によって商業演劇としての枠を壊すことになる『近松心中物語』が書かれた。演出の蜷川にも触れておきたい。蜷川は桜社という演劇集団を率いていて清水邦夫の「心情あふれる軽薄さ」を見た記憶がある。非常に政治的な芝居であったことからその桜社を解散した直後の商業演劇への転身は私の周辺でも裏切りだという評価があった。その後の蜷川が世界の蜷川になるとは全く思わなかった。『近松心中物語』の演出について、蜷川はまず音楽から入ったのだそうだ。「

―心情より論理的なプロセスで音楽を決めた。近松の世界は元は人形浄瑠璃の世界だから、音楽的には浄瑠璃、義太夫によって成立している。しかし昔からこの部分がどうにも処理がつかなかった。出来上がった秋元本を前にして、どうやって自分の世界に近づけようかと考えた時、義太夫の音はなぜあのように喉を締め付ける様な音なのだろうか、と疑問に思った。日本人の美学というか、当時の日本人の心情をすくうような音ではなかったのか。義太夫語りは悲嘆の声のように聞こえる。その旋律が当時の流行唄として大衆に支持されたのではなかったのか。現在、声を絞り出すように歌っているのは演歌。とくに森進一。義太夫=森進一の構図が出来た時「解けた」と思った。思いつきではなくその時代と観客の関係を考え、現代に置き換えがありうるという発想だった。

次は散文体。秋元は近松浄瑠璃の韻文世界を、観念的な言葉も交る現代の散文世界に置き換えた。演劇評論家の渡辺保さんは、蜷川による演歌の発案を秋元の散文の台詞と対比させて「このせりふー言葉と、歌―音楽の二重構造であり、これこそが『近松心中物語』が現代における『語り物』の再生の構造であり、せりふによる現代劇の『近代』と『語り物』の統合」と評価した。

そして構造。凄絶な心中ではあっても一組だけでは愛の世界を借りた人間の全体像は描けない。もう一方に対照的に滑稽で人間くさい哀切なカップルを配する。二つの中心をもつ散文の楕円世界だ。

秋元は「冥途の飛脚」の忠兵衛と梅川を、捕縛された原作と異なり、極限に追い詰められた純愛を心中して貫く悲劇のカップルにした。原作の冬の時雨の設定は、豪奢に吹雪が二人の鮮血で染められる雪原に置き換えた。一方「緋縮緬卯月の紅葉」と「卯月の潤色」の少女妻お亀と与兵衛夫婦には、哀しいほどの喜劇味を刷く。原作では与兵衛が後追い心中する。しかし秋元版ではお亀だけが死に、与兵衛は惨めに生き残る。これが今も変わらぬ人間の真実だ、と筆を留める。原作の浄瑠璃三本を換骨奪胎し、撚り合わせた。片や破滅美の悲劇、片やペーソスのにじむ人間喜劇。民衆を温かくリアルに見つめる秋元の目だ」。

私が泣きながら聞いた森進一の「それは恋」。あれはどうにもならないその時の救いの歌であったと改めて思い出す。そしてその時の原稿料は200万円であったそうだ。高いのか安いのか私には理解できないが、秋元には不満が残る額であったようだ。その後、「元禄港歌」「南北恋物語」が書かれて、上演されているが、確かに見た記憶はあるが、さしたる印象がない。それほど『近松心中物語』が強烈だったと言うことかもしれない。また朝倉摂の舞台装置も印象的で後にたしか仏壇と称されたように記憶しているが、書き割りではなくて大枠のような装置の中での芝居が1700年代の芝居小屋の雰囲気を出していた。そして群衆と花。『近松心中物語』のときの圧倒的な雪。そんなことが思い出される。なお上演回数は1000回に上ったそうだが、太地喜和子が亡くなってからは、高橋恵子が演じて、一度だけ見に行ったが、もはや見るべきものとも思えなかった。また当時太地喜和子について、文学座を出るとか出ないとかといううわさがながれた。杉村春子が泣いて引き止めているというような噂も流れていた。秋元は太地喜和子を好んでいたようであるが、後にテレビドラマ『心中宵庚申』『おさんの恋』『但馬屋のお夏』の頃には、せりふ回しの衰えに女優としての岐路を見て、疎遠になっていたということである。なおこれらのテレビドラマはすべて覚えている。和田勉というこれも強烈な個性の演出家がNHKにはいたのである。今は昔の物語である。

最後に山本の最終章が「勝つ」となっている。たしかに秋元は学歴の低さ、女性、独身。いまだフェミニズムも男女共同なんたらかんたらということが言われる時代ではないときから闘いぬいた。とくにその孤独との闘いは壮絶であったようだ。それを闘い抜いて勝ったということを意味しているのかもしれないが、わたしならこうは書かないだろう。秋元は負けた弱い者たちへ向けた目こそが意味があったのだ。

最終章 華 とでも書くと思う。

さいごに:「それわ恋」作詩 秋元松代 作曲 猪俣公章 歌 森進一

「それわ恋」

朝霧の深い道から
訪れて 私をとらえ
有靄の遠い果てから
呼びかけて私をとらえ
ひたすらに 愛の願いを
あふれさせたもの
それは恋 私の恋

逢う時は 姿も見せず
うつつなく けれど確かに
言葉なく 名前もつげず
ひそやかに けれど確かに
よみがえる 愛の誠を
あふれさせたもの
それは恋 私の恋

ある時は 心もとなく
疑いに 思い乱れて
ある時は おそれにゆらぎ
悲しみに 我を忘れて
その故に 愛の祈りを
あふれさせたもの
それは恋 私の恋

魔女:加藤恵子