魔女の本領
マニエリストを追いかけているうちに…

マニエリスム談義

『マニエリスム談義 驚異の大陸をめぐる超英文学史』


さすがにこの本を「学魔の本函」に紹介できるほど自信はないし、それほど恥知らずでもないので、わたしの勝手な読みを勝手に書き散らす方に書いて、学魔の目に留まらないことを願って逃げをうつことにする。

出版時ツイッターで激賞されていたので、ご承知の方も多いと思われるのだが・・・

『マニエリスム談義 驚異の大陸をめぐる超英文学史』高山宏×巽孝之 を読む。

マニエリストを追いかけているうちに道を外れて気がつけば街宣左翼マニエリスタ(女性形)となる。

ともかく両者がすさまじく博学・多識だし、そのひろがりは文学に留まらない。読む方は対談の主題にはついてゆけるけれどもそれに関わる文学作品、評論の類に目を通しているわけではないから、振り回されて目を回し、気付くと「夢?」と思ったりするのだ。学魔高山氏が振った話をきっちり整理してまとめて答えてくださる巽先生の存在がなかったら、まず理解不能かもしれない。

この御両人の間でかわされるはなしのおおくに御二人が(笑い)と書かれている箇所を、この私も笑えると思って我ながらやるじゃんと一瞬思うのだが、笑っている自分の理解は本当に正しいのか?と思った瞬間ぞっとしたりした。

マニエリスムって何なんだと言うことを簡単に知ろうと思う向きには実は深すぎて、ついてゆくのが困難な本なのだが、どのページを開いて読みなおしてもマニエリスムのそれぞれの側面が語られているわけで、一言で言えば「ビックリしたなー」であり、マニエリスムの第一義的意味である驚くという見え方を本書そのものが実現しているわけである。ともかく神と天才のやりとりは天地創造を思い浮かべるほどのものなのかもしれない。そのなかでもびっくりしたいくつかを書き記しておくと、巽先生がアメリカにおけるカントの受容ということを述べておられる。先生の修論も博論も主題がポーとカントだったということ。カントの『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』はポーの理論にそっくり対応している。わー知らんかった!!

ポーがドイツ語でカントの文献を読みこなしたとは思われないが、その間にエマソンやコールリッジが媒介者として入っているのだそうだ。

「模倣と独創をめぐる理論そのものが、カントからコールリッジへ、そしてエマソンへとバトンタッチされてゆくごとに模倣の中にも独創的な差異をきたしてゆくなかで。天才の真価とは、それに続く後発者がいかに巧みに天才を換骨奪胎するかにかかっているというのがカント以降の真理であるならば、それはまさにマニエリスムの極意と言う他ない」

なんで、この箇所にひどく惹かれたかと云うと、まったくもって私個人の問題で、他の読者には何の関係もないので、書くことの意味が怪しいのだが、キューバのスペインからの独立の指導者であり、詩人で雑誌編集者でもあった、キューバの国父といわれるホセ・マルティの児童書(雑誌)を私が翻訳した際に、どうしても理解できない幾つかの点のなかに、マルティーがエマソンを崇拝していたというのが理解できなかった。

また、彼はポー論も書いている。さらにかれの児童書『黄金時代』がなんであれほどごたごたの寄せあつめで、挿絵を重視していたのか、またどうしても翻訳できない個所が数カ所あり、キューバの専門家に尋ねても答えがもらえなかった。一部には神秘主義者だということがかかれているものもあるのだが、これってとんでもなくネオ・プラトニズムじゃないのか?だれも教えてくれなかったたけど、マルティが革命家だという肩書きにだまされたかも知れないと激しく思い直しているのだ。またマルティがアメリカ亡命時に書いた新聞記事の中には地震による崩壊の記事や光にたいする絶大な喜び(今記憶で書いていて、正確な記事が思い出せない)。これもどうも単純な嗜好性ではないかもしれない。

マルティが雑誌の編集に執着したことや『黄金時代』のなかでパリ万博を激賞していること等も含めて、完璧にマニエリストなんじゃないのかという思いに駆られて焦っている。だってキューバまで勉強に行って誰もそんなこと言わなかった。ただ今思い出すと、私についた先生が、マルティの写っている写真を見せて、誰かヨーロッパの写真にそっくり構図を真似ているということを教えてくれたのだが、あの意味は何だったのだろうか?

本書を強引に誤読したもう一点は現在の政治と絡む。トランプの出現で反知性主義が言われる昨今、この日本でもそれは同じで自民党政権の反知性主義に対抗する手段を持ち得ない反体制側のありようにいら立つ毎日なのだが、全く真実なんか価値はなく、関係性に齟齬が出てくれば事実を曲げて権力者の嘘を正当化する。

1527年のローマ劫略がルネサンスの終焉でありマニエリスムの始まりであるという厳然たる歴史を知る者として、東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故が日本人の精神構造に何の変化も与えていないとはいえないだろうとおもいのだ。ご存じ安倍首相がオリンピック招致のためについた大ウソ「福島の汚染はアンダーコントロール」というあのがすべての始まりのような気がする。

事態は悪化しているがいまや平穏を装うために日本人がその嘘にひれ伏している。時代はマニエリスムだという印象は私だけのものなのだろうか?この時代相は戦前のモノに相似だと言うこともいわれる。破壊から立ち直ったはずの日本がいままた大地震と原発事故を引き金に政治的な破滅に向かっている。そんな時にあらためて「驚いて」ばかりはいられないのが政治闘争なのだが、私がかかわる運動が全くの独立愚連隊的で時には一人で闘っているゲリラでもあることをもってマニエリストのお笑い大闘争を継続している事を誇りに思おうかと自画自賛しているが、これは本書の内容とは全くとっぱずれたものなので、まじめに文学、美術、評論を学問される方々は心して読まれることをお勧めいたします。

なお、本書で中核的(セクトではないよ)に論じられているかなりの本は読んでいる。それでも追い付いていない。少しはまじめに読書をせねば、死ぬまでに読み切れない高山本が高い山になっている。

魔女:加藤恵子