情熱の本箱
形而上学と構築主義を乗り越えた「新しい実在論」とは何か:情熱の本箱(241)

世界存在

形而上学と構築主義を乗り越えた「新しい実在論」とは何か


情熱的読書人間・榎戸 誠

『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル著、清水一浩訳、講談社選書メチエ)は、形而上学と、形而上学に異を唱える構築主義の双方から「いいとこ取り」した「新しい実在論」を提唱している。

新進気鋭の哲学者の手になる本書を読み解くには、少しばかり頭の整理が必要である。私なりの理解では、形而上学(古い実在論)の「いかなる事象にも、人間による認識から独立した唯一真正な本質が存在する」という考え方を批判的に継承し、構築主義の「いかなる事象にも唯一真正な本質が存在するという考えを否定する」立場を批判的に摂取したところに、「新しい実在論」が誕生する。

「形而上学と構築主義は、いずれもうまくいきません。形而上学は現実を観察者のいない世界として一面的に解し、また構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として同じく一面的に解することで、いずれも十分な根拠なしに現実を単純化しているからです。ところが、わたしの知っている世界は、つねに観察者のいる世界です。このような世界のなかで、必ずしもわたしには関係のないさまざまな事実が、わたしの抱くさまざまな関心(および知覚、感覚、等々)と並んで存在している。この世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない。これが新しい実在論です。古い実在論、すなわち形而上学は、観察者のいない世界にしか関心を寄せませんでした。他方で構築主義は、成立していることがらの総体、すなわち世界を、それこそナルシシズム的にわたしたちの想像力に帰してしまいました。いずれの理論も、何にもなりません」。

形而上学の欠点は、事象の諸様相それぞれのリアリティを考えられないことにあり、構築主義の欠点は、構築作用の収斂する一つの対象のリアリティを考えられないことにある。この両者に対して、新しい実在論は、さまざまな認識主体による対象の構築を認める(どんな事象にも複数の様相があり、それぞれの様相にそれぞれのリアリティがあることは、事実として認めざるを得ないから)と同時に、認識主体による構築作用とは別に対象それ自体の存在を認める(さもなければ、諸々の認識主体が同じ対象に関わっていると言えなくなってしまうから)。対象それ自体の確固とした存在を認めるに当たって構築主義の議論を経由するところに、確かに素朴な実在論ではない「新しい実在論」の特徴があるのだ。

新しい実在論の利点として、マルクス・ガブリエルは、「諸々の主体に共通の準拠点を与える」平等性と、「この準拠点があってこそ、同じ事象に対する諸々の主体それぞれの関わり方――例えば当の事象の「認識」――の当否を決することができる」批判性を挙げている。

「ヴァーチャル・リアリティの浸透した劇場型政治の現状にあっては、事実無根の虚言・戯言でも、いったん支持層を得て人びとを『連帯』させるスローガンになってしまうと、あたかも何らかの事実に基づく政治的主張であるかのように通用し、顧慮されるようになる。中立を装う報道・出版メディアが、そうした動きを後押しする。・・・多様な解釈の可能性ばかりを強調して、真理や客観性の主張を避けてきたポストモダン思想は、このような政治状況と共犯関係にある」。

「新しい実在論」は、客観的に実在する真理を主張しなければならない、そして、そのような真理の認識は可能なはずだと前向きに捉えているのである。