情熱の本箱
日本女性への思いから、日本国憲法に「男女平等」を書くべく頑張った女性がいた:情熱の本箱(245)

1945年のクリスマス

日本女性への思いから、日本国憲法に「男女平等」を書くべく頑張った女性がいた


情熱的読書人間・榎戸 誠

『1945年のクリスマス――日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(ベアテ・シロタ・ゴードン著、平岡磨紀子構成・文、朝日文庫)は、ベアテ・シロタ・ゴードンの自伝であると同時に、1946年2月4日から12日までの9日間に凝縮した日本国憲法草案を巡るドキュメントでもある。

1945年12月24日、日本育ちの22歳のベアテは、留学先の米国から、太平洋戦争で焦土と化した日本に5年ぶりで帰ってくる。なお、ベアテの両親はロシア人(ユダヤ人)である。

1946年2月4日(月)、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民政局長のホイットニー准将から、民政局員25名が日本国憲法草案作成の指令を受ける。「『これからの1週間、民政局は、憲法草案を書くという作業をすることになる。マッカーサー元帥は、日本国民のための新しい憲法を起草するという歴史的にも意義深い仕事を、民政局のわれわれに命じられた』」。「あとを引き継いだケーディス大佐は、用意していた憲法草案作成の組織を発表し、担当者を任命、仕事の進め方を説明した。・・・25人のメンバーは、8つの委員会に分けられた。・・・(ケーディス大佐は)その当時40歳。凄い秀才で、物事の把握が速く、決断も速いという、参謀型にはうってつけの人だった。その割には、いつも気軽に誰とも言葉を交わし、すごいハンサムだということもあったが、私たち女性仲間にも人気があった」。

「そして、人権に関する委員会は、ロウスト中佐とワイルズ博士、それに私の3人が任命された。私の役目は秘書でもタイピストでもなかった。私は、自分の名前が読み上げられた時、『これは凄いことになった! 今、私は人生のひとつの山場にきている』と感じた。全力を尽くしてあたらねばならないという、強い使命感が、私の沸き立つような興奮を抑え、冷静にさせていた。・・・大部屋に戻ると、ロウスト中佐が、『あなたは女性だから、女性の権利を書いたらどうですか?』と言ってくれた。嬉しかった。飛び上がるほど嬉しかった。『教育の自由についても書きたいのです』。『いいですよ』。ロウスト中佐は、にこやかに頷いた。私は、方針を立てた。まず日本の女性にとって、どんな条項が必要なのか?・・・英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語、スペイン語、日本語。私は自分が読める6か国語を駆使し、人権に関する条文で役に立ちそうな箇所を、片端から抜き出しメモをつくった。・・・その夜、私は憲法草案のことを考えて何回も寝返りをうった」。

2月5日(火)。「私は、各国の憲法を読みながら、日本の女性が幸せになるには、何が一番大事かを考えた。赤ん坊を背負った女性、男性の後をうつむき加減に歩く女性、親の決めた相手と渋々お見合いをさせられる娘さんの姿が、次々と浮かんで消えた。子供が生まれないというだけで離婚される日本女性。家庭の中では夫の財布を握っているけれど、法律的には、財産権もない日本女性。『女子供』とまとめて呼ばれ、子供と成人男子との中間の存在でしかない日本女性。これをなんとかしなければいけない。女性の権利をはっきり掲げなければならない。まず、男女は平等でなくては・・・。婚姻も、親ではなく自分の意思で決められるように・・・」。

「私は、『男性も女性も人間として平等である』をキーワードに据えたらよいことに気づくと、すぐにタイプに向かった。私は、人権条項中の<具体的な権利と機会>に関することを担当した。私は、生きていく人間にとって一番大切なものは、『家庭』であり、その家庭の中では『男女は平等である』ことを謳っておかなければならないと考えた」。「私は、女性が幸せにならなければ、日本は平和にならないと思った。男女平等は、その大前提だった」。

2月6日(水)。「私は、日本の国がよくなることは、女性と子供が幸せになることだと考えていた。だから、いろいろな国の憲法を読んでも、その部分だけが目に入ってきた」。「私は、女性の権利を具体的に憲法に書いておけば、民法でも無視することができないはずだと考えた。官僚になるのは、大半が男性であるだろうし、その男性たちは、保守的であることがわかっていたからだ」。

2月7日(木)。「気づかなかったばかりに、後で日本の女性たちが苦労することがないように、と念を入れた。私は、自分の肩にかかっている責任を強く感じていた。日本女性の味方は私一人しかいない。それは、孤独感ではなかった。励みとか決意とかいう、血の熱くなるものだった。赤茶けた焦土だからこそ、第一歩から新しいことが心機一転可能なのだ。日本が変わるまたとないチャンスだと思われた」。

2月8日(金)。「戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よくつくるのだなどという傲慢な雰囲気はなかった。自分たちの理想国家をつくる、といった夢に夢中になっていた舞台だったような気がしている」。「激論の中で、私の書いた『女の権利』は、無残に、一つずつカットされていった。一つの条項が削られるたびに、不幸な日本女性がそれだけ増えるように感じた。痛みを伴った悔しさが、私の全身を締めつけ、それがいつしか涙に変わっていた」。

2月9日(土)。「軍国主義時代の日本で育った私は、心配だったのだ。日本民族の付和雷同的性格と、自分から決して意見を言い出そうとしない引っ込み思案的な性格、しかも過激なリーダーに魅力を感じる英雄待望的な一面は、昭和の誤った歴史を生み出した根源的なもののように思う。日本が本当に民主主義国家になれるのかという点で不安を持っていた。だからこそ、憲法に掲げておけば安心といった気持ちから、女性や子供の権利を饒舌に書いたのだった。その気持ちは、当時の日本を少しでも知っている人なら、理解し賛成してくれるはずだ」。戦前の日本で育ち、日本人の性向を熟知していたベアテだからこそ、日本女性の権利を守ろうと必死に頑張ったのだ。

「『生涯の中で、一国の憲法を書くという、誰にも経験できないまたとないチャンス』と気持ちは張りつめていたが、体は連日の知的ハードワークで、どんよりと重かった。しかし、もうもうと立ち込める煙草の煙の中で、ロウスト中佐とワイルズ博士が運営委員会の3人と(議論で)闘っている姿を見ると、ここでへばっては申し訳ない気持ちになった。『今ガンバらねば、いつガンバるのだ!』。私は自分を叱った」。

「この日、ついに間に合わなかった地方自治の条項を除いて、マッカーサー元帥に草案が届けられたのは、もう夜中に近かったように思う。マッカーサー元帥は、今日的表現でいうと、将軍のくせにワーカホリックだった。いつも午後の昼寝を終わって、4時に執務室に戻っていたが、午後10時までは確実に働いていた。土曜も日曜もなかった人だ」。

「人権条項は運営委員会との会合のあと、もう一度書き直していわゆるマッカーサー草案として完成している。つまり第3稿まで修正が行われて、最後に完成案になった」。「全部で92か条だったマッカーサー草案のうち、人権条項はその3分の1を占めることになる。明治憲法に一字も入っていなかった『女性』や『児童』の文字を、とにかく新しい憲法の中に入れることはできたのだ。ケーディス大佐らに削られた条項のことはくやしかったけれど、やるだけはやったのだ。完全な92条の草案が完成したのは、12日火曜日の夜になった」。

「当時の民政局員は、私ばかりではなくみんな理想国家を夢見ていた。戦勝国の軍人とて、家族や恋人を失った人は多かった。私もその一人だし、みんな戦争には懲りていた」。

「密室の作業は、この12日の夜半に終わったが、執筆に心血を注いだ25人は、完成を喜びあう余裕などなかった。乾杯も何もなかった。みんな眠りたい一心で、よろめきながら宿舎に帰った。第一生命ビルの6階の灯が9日ぶりに消えた」。

「この憲法草案が、日本側の吉田茂外務大臣と松本烝治国務大臣の手に渡されたのは、2月13日、麻布の外務大臣官邸であった」。この後、日米の間で、長く緊迫したやり取りが行われ、ベアテは通訳として出席したが、こういう一幕もあった。「『マッカーサー元帥は、占領政策の最初に婦人の選挙権の授与を進めたように、女性の解放を望んでおられる。しかも、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが、日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものです。悪いことが書かれているはずはありません。これをパスさせませんか?』。ケーディス大佐の言葉に、日本側の佐藤達夫さんや白洲(次郎)さんらが一斉に私を見た。彼らは、私を日本人に好意を持っている通訳として見ていたので、びっくりしたのだった。一瞬、空白の時があった。『このシロタさんが? それじゃあ、ケーディス大佐のおっしゃる通りにしましょう』。日本側は、私の顔を見て承諾せざるを得なかった」。

著者の日本女性への熱い思いがひしひしと伝わってくる。