魔女の本領
エーコが残した最後の小説が世界の最先端の問題であった…

『ヌメロ・ゼロ』


ウンベルト・エーコは2016年2月19日に死去している。しかしその死後も続々と著書が出されている。イタリアにおいても没後一週間も経たずに2冊が出版されたそうである。いずれもエーコが出資し、ブレーンとして参画していた新しい出版社だそうである。死して、私たちをまた喜ばすエーコに乾杯。というわけで、エーコ最後の長編というけれど、短編だろうと私は思う。生前最後の小説『ヌメロ・ゼロ』ウンベルト・エーコ著 中山エツコ訳を読む。

イタリア人にはかなりの悪夢を呼び起こされるだろうし、私たち日本人にとっては、報道の中に今や真実をどうやって探り出したらいいのか、日々苦闘していることで、警告の書となっているかもしれない。イタリアもまた政治情勢がエーコが若かりし頃とは、根本から異なってしまったからこその、この著作に込めた最後のメッセージは厳しくのしかかっている。

1992年の4月6日から6月11日までの出来事で登場人物も数人だけ。ヌメロ・ゼロとは出版界でのいわゆるパイロット版のことを指している。この新聞の出資者ヴィメルカーテと編集のシメイが狙っているのは実はパイロット版を出すことで、政治・経済の裏側を暴くのではなくて、刺激して、発行をやめて、その代わりに金をふんだくり、自分たちが上層に入り込むステップにすることなのだ。つまり新聞の発行は初めからされないことが決められている。そこに集められた落ちこぼれ記者たちは、事実を知らされるのはドイツ語の翻訳でやっと生計を立ててきていたコロンナだけ。コロンナは編集会議でもみんなのまとめ役を引き受けているうちに、非常に有能だが少々変わりもののマイア(他の人からは自閉症だと言われている)の慰め役となるうちに、彼女と親しくなり、絶対に出ない新聞のことを打ち明けてしまう。記者たちは編集長から変な記事を取ってくるように命じられる。なぜか売春婦の記事とか好立地にあるのに客がこないレストランが潰れないのはなぜかとか(これはマフィアがらみだろうと予想がつく)。ともかく毎日くだらない編集会議が続くうちに、一人の記者がスクープを持っていると言い出すのだが、ここが本書の中核になる。ムッソリーニには影武者がいた。本物のムッソリーニはある修道院に隠れ、のちにアルゼンチンに逃げて生存していた。パルチザンに殺されたのは影武者で、終戦前夜ムッソリーニは表舞台に出ておらず、影武者と本物の区別はつかなくなっていた。殺されて、橋に吊るされたムッソリーニの死亡検案書やらがめちゃくちゃである事やら墓が暴かれているらしい事、その遺体がある修道会に隠されていたらしいとか、いわば陰謀論なのだが、真実らしきものをつなぎ合わせてある目的を持って構成するとある種の真実が出来上がる。これを調べ始めた記者ブラッガドーチョは全てを明らかにするといっていた前日の夜、何者かに殺されてしまう。警察の捜査が入り、ブラッガドーチェが何を調べていたのか尋ねられるが皆黙して語らなかったが、一体彼は何の虎の尾を踏んだのか?ムッソリーニ帰還を計画していた連中なのか、ローマ法王なのか、マフィアなのか。実際イタリアにおいて当時起こったことの中には、ローマ法王が即位して数日で死亡した事件や法王の金庫番と言われた司祭が橋に吊るされた事件や「赤い旅団」の犯行と言われる爆破事件も多発した。しかしこれも本当に左派過激派の事件なのか?モロ首相誘拐暗殺は誰の仕業なのか?本当の事実なんかあるのか?

悪夢のような状況にコロンナは誰かに追われている幻想から必死に逃れ、マイアの助けで彼女の小さな家がある田舎へ車で逃走する。ヌメロ・ゼロどころか全ては壊れてしまうのだが、主人公はどうやら自閉症とか言われているが実は最も勇敢な彼女に救われるという結末はまーいいとして、私は陰謀論には組しないが、真実はあるのか?という不安感は日々感じている。エーコが本書で編集会議のあれこれを幾分おかしく書いているが、彼の狙いは客観的な情報・報道はありうるのかという点である。今やトランプの登場や安倍政権による報道統制やらで嘘か、事実かをより分ける手段が重要で国民が今後の民主主義が維持できるかの瀬戸際である。エーコが残した最後の小説が世界の最先端の問題であったことに改めて驚くとともに、エーコが小説に込めた遺言をしっかりと掴んで行きたいと思うのだが、小説としても十分楽しめます。どうぞお読みください。

魔女:加藤恵子