情熱の本箱
須賀敦子は、若き日々に、どのような読書体験を積み重ねてきたのか:情熱の本箱(274)

須賀敦子は、若き日々に、どのような読書体験を積み重ねてきたのか


情熱的読書人間・榎戸 誠

読み手に知的快感を与える文章を綴る須賀敦子が、若き日々に、どのような読書体験を積み重ねてきたのかを知りたくて、『遠い朝の本たち』(須賀敦子著、ちくま文庫)を手にした。

アン・リンドバーグの『海からの贈物』を巡って、このように綴られている。「幼いときの読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかも知れない。ここまで書いてきて、思いがけなくもうひとつの考えが浮かんだ。アン・リンドバーグのエッセイに自分があれほど惹かれたのは、もしかすると彼女があの文章そのもの、あるいはその中で表現しようとしていた思考それ自体が、自分にとっておどろくほど均質と思えたからではないか。だから、あの快さがあったのではないか。やがて自分がものを書くときは、こんなふうにまやかしのない言葉の束を通して自分の周囲を表現できるようになるといい、そういったつよいあこがれのようなものが、あのとき私の中で生まれたような気もする」。

「1955年に出版された『海からの贈物』は、著者が夏をすごした海辺で出会ったいろいろな貝がらをテーマに7つの章を立てて、人生、とくに女にとって人生はどういうものかについて綴ったもので、小さいけれどアンの行きとどいた奥行のある思索が各章にみち美しい本である」、

「半世紀まえにひとりの女の子が夢中になったアン・モロウ・リンドバーグという作家の、ものごとの本質をきっちりと捉えて、それ以上にもそれ以下にも書かないという信念は・・・読者に伝わるであろう。何冊かの本をとおして、アンは、女が、感情の面だけによりかかるのではなく、女らしい知性の世界を開拓することができることを、しかも重かったり大きすぎたりする言葉を使わないで書けることを私に教えてくれた。徒党を組まない思考への意志が、どのページにもひたひたとみなぎっている」。

須賀の作品とアン・リンドバーグの作品を読み比べて、憧れの対象だったアンに須賀が追いつき追い越していると感じるのは、須賀を贔屓し過ぎだろうか。

ジョルジュ・サンドの『愛の妖精』の思い出は、このように語られている。「(9歳のころから)私と本とのつながりが、それまでの『愉しい、ただのともだち』という単純な関係から、『いっときも離れられない恋人』の関係になったのではなかったか。私は、勉強をせっせと怠けて本を読み、その本の内容をまた、せっせと現実に運びこんでは、ひたすらぼんやりと暮らすようになった」。

「ファデットという、優しいひびきをもつ名の少女が主人公の、『愛の妖精』という本に私がめぐりあったのは、たぶん、17の夏休みだった。・・・男の服装をして、人々をおどろかせたというジョルジュ・サンド自身の少女時代がモデルだという、こんなファデットの描写を読んで、私はすっかりうれしくなった。ちっぽけでやせっぽちなのも、おてんばなのも、好奇心にみちているのも、おしゃべりで、色が黒くて、服装に腑頓着なのも、すなわち、すべてが、すんなりとおとなになれなくてもがいていた、そのころの私にそっくりな気がしたのだ。それよりも、もっと私が惹かれたのは、見かけは仕方のないおてんば娘なのに、ほんとうは『ものの底まで見通す頭脳』にめぐまれている、という作者の設定だった。かしこいファデット、霧のたちこめた河原で、やさしい声で歌っているファデット、強がりのくせに、無類の淋しがりやで、月の夜、石切場でひとりすすり泣いているファデット。でも私は、こんな物語を書けるジョルジュ・サンドのようになりたい、とは考えないで、私はひたすらファデットになりたかった。たしかに、彼女はかしこかった。まずしさゆえの苦労と孤独、そして足のわるい弟への愛情が、彼女に、しっかりとものごとの本質を見きわめる能力を与えたのではなかったか。それでも、彼女は、ずいぶんながいこと、ひねくれ者だった。そんな彼女に、裕福な農家に育った、健康で、すなおな青年(ランドリー)が惹かれるようになる。・・・さまざまな葛藤のすえ、ランドリーの愛をすなおに受け入れたときから、ファデットは、それまでの気むずかしい性格をきっぱりと捨てて、やさしい、愛らしい婚約者に変貌する。・・・ファデットの物語は、いつか自分もそこまで行くことができるかも知れない地点として、私をいざないつづけた。ランドリーとの婚約がきまって、うつくしい少女になったファデットのほがらかな笑い声が、耳の底で鳴りつづけた」。私も、小学生の頃は目立たなかった女子が、中学生になると、勉強でもリーダーシップでも、そして見た目もめきめきと輝き出したのでびっくりした経験がある。

クロード・モルガンの『人間のしるし』は、大学院生だった須賀に強烈な印象を刻み込んだ作品である。「1940年6月にドイツ軍の捕虜になって1年とちょっと、オーストリアの収容所で服役しているジャン・ベルモンは、ある日、おなじ収容所で、彼の妻クレールの友人でもある独身の音楽家、ジャック・フォンタニエに出会って、狂喜する。きびしい収容所生活の合間をぬって会うたびにふたりはクレールのうわさをするが、ジャンは、ある日、ジャックが肌身はなさず持っていた結婚前のいきいきとしたクレールの写真を見て、はっとする。写真のなかの妻は、自分がつねづね護ってやらなければいけないと思っていた『やさしいクレール』とあまりにも違ったからだ。ジャックの話から、彼が戦線からもクレールに手紙を出しつづけ、パリにいるクレールも彼に返事を書いているのを知って、ジャンは嫉妬する。それをジャックは、彼がクレールを彼女自身のためでなく、自分の所有物として愛しているにすぎないと、つめたく批判する」。

「この小説が、抵抗運動についてだけ書かれたものだったら、たぶん、あれほど私たちを興奮させはしなかっただろう。目のさめる思いであの本を読んだのは、そこに『人間らしく生きる』とはなにかという問題が、根本のところで提示されているように思えたからだった。『らしく』なるまえに、人間とはいったいなんだろう。男女とは・・・」。須賀の熱烈なファンである私としては、彼女がこれほど高く評価している『人間のしるし』を読まずに済ますわけにはいかないな。