情熱の本箱
成長の記録+愛の記録+黒人差別の記録=ミシェル・オバマの自叙伝だ:情熱の本箱(302)

成長の記録+愛の記録+黒人差別の記録=ミシェル・オバマの自叙伝だ


情熱的読書人間・榎戸 誠

大統領夫人時代のミシェル・オバマの言動に、報道を通じて好感を覚えていたが、今回、自叙伝『マイ・ストーリー』(ミシェル・オバマ著、長尾莉紗・柴田さとみ訳、集英社)を読んで、自分と同時代にこんな素晴らしい女性が存在していることを誇らしく感じた。

本書は、類書とは異なる輝きを放っている。その輝きは、3つの要素に起因していると、私は考えている。1つ目の要素は、ミシェル自身の成長の記録。2つ目は、バラク・オバマとの愛の記録。凄いのは、この愛の記録が、期せずして最愛の夫・バラクの見事な評伝となっていることだ。3つ目は、黒人差別の記録という側面を備えていることである。

成長の記録――。

「(プリンストン大学では)楽ではなかったが、自分はどんな困難でも乗り越えられると自信がついた。貧困層の多い街の高校から来た自分に入学時にどんなハンデがあったとしても、時間をたっぷり費やし、必要なときには助けを求め、やるべきことを先送りせずきちんとこなしていればすべてを帳消しにできると思えた。・・・高校時代の私が地元を代表する気分でいたとすれば、大学での私は人種を代表していた。授業で発言をしたりテストでいい点を取ったりするたび、これがいずれもっと大きな意味を持ってほしいとひそかに願った」。

「それまでの努力が実際に形となって報われる。私の次の段階は仕事をして給料をもらうことであり、その舞台はシカゴにあるシドリー&オースティンという一流法律事務所だった」。

その後、ミシェルは、弁護士という仕事は自分に向いていないことに気づき、シカゴ市長のアシスタント、NPOの事務局長、シカゴ大学の副学部長、シカゴ大学病院の院長補佐、副院長、NPOの理事長を歴任する。2人の娘を育てながら、バラクの大統領選出馬直前まで、仕事を続けたのである。

「私は体の不自由な父親のもとに生まれ、狭苦しい家に暮らし、お金もなく、荒廃しはじめた貧民街で育った。けれど一方では、愛情と音楽に囲まれて、多様性に満ちた街で育ち、教育によって自らを高められる国で生きている。私は何も持たないとも言えるし、何もかも持っているとも言えるのだ」。

愛の記録――。

「(シドリー&オースティン法律事務所では)大企業の依頼で抽象的な知的財産案件を分析することに加え、事務所が採用したいと望む若き弁護士たちの育成もあった。事務所のシニアパートナーから夏の学生インターンの教育係をやってくれないかと言われれば、もちろんイエスと答えた。しかし、その一言がその先どれほどの影響をもたらすことになるのか、そのときはまだはっきりとはわからなかった。担当するインターンの名前を記した書類が届くとき、自分の人生に深く走る見えない断層線が震えはじめたこと、それをつなぎとめていたものが滑り落ちだしたことなど、知る由もなかった。自分の名前の横には、懸命に人生の階段を上っている優秀な法学生の名前が書かれていた。同じ黒人で、しかもハーバード出身。それ以外の情報はなかった。わかるのは氏名だけ、それも変わった名前だ」。

「バラクには(私の)助言がほとんど必要なさそうだとすぐにわかった。彼は私より3つ年上で、もうすぐ28歳になるところだった。私と違い、ニューヨークのコロンビア大学を卒業後、数年間仕事をしてからロースクールに入った、印象的だったのは、彼が自分の生き方に自信を持っているように見えたことだ。不思議なくらい不安を抱いていないようだったが、初めはそのわけがなかなかわからなかった。プリンストンからハーバード、そして47階のオフィスへと成句に向かってまっすぐ行進しつづけた私の道のりと比べて、バラクの道は気まぐれにジグザグとうねりながらまったく別の世界を通っていた。・・・私たちはそれぞれのバックグラウンドについてや、どうして法律の道に進んだのかなどを笑いながら話した。バラクはまじめだが、まじめくさった人ではなかった。陽気な振る舞いをしながら、頭の中ではいろいろなことを考えていた。興味をかき立てられる不思議な二面性を持っていた」。

「バラクは都市の住宅政策に関する本を読みながら一人で夜を過ごす性格だった。地域振興に取り組んでいたときは、何週間、何か月にもわたって貧しい人々が語る苦労話に耳を傾けていた。彼の希望とエネルギーの源は他の人とはまったく違うところにあり、そこを探し当てるのは簡単ではないのだと、私にも少しずつわかってきた」。

ミシェルは、バラクとの恋愛よりも自分のキャリアを進めねばと、バラクに惹かれる気持ちを必死に抑えていたが、「膝を並べてそこ(道路脇)に座り、外で一日を過ごした心地よい疲れの中、アイスクリームが溶ける速さに負けないようにひたすら無言で食べた。たぶん、バラクには表情を読まれていたか、態度から感づかれていたのだろう。もはや私のすべてが緩んでほどけだしていることを。バラクはかすかな笑みを浮かべながら、じっと私を見た。『キスしてもいい?』。そう言った彼に私は身を寄せた。すべてがはっきりとした」。

「バラクを好きになってもいいのだと思ったとたん、欲望、感謝、充実感、好奇心といった感情が嵐のように押し寄せてきた。自分の人生やキャリア、さらにバラク自身に対してさえ抱いていた不安はあの初めてのキスで崩れ去ったようで、その代わり、彼をもっと知りたい、早く彼のすべてを探って彼のすべてを経験したい、という強い気持ちが生まれた。・・・バラクには興味をそそられた。それまでの恋人たちとまったく違うと感じたのは、彼といるととても安心できたからだろう。バラクは惜しみなく愛情表現をする人だった。私をきれいだと言ってくれた。いつもいい気分にさせてくれた。私にとっての彼は、まるでユニコーンのように非現実と思えるほど不思議な存在だった。物質的な話はまったくせず、家や車の購入どころか、靴を買うといったことさえ話題にしなかった。持ち金の大半を費やして手に入れたたくさんの本は彼にとって神聖なものであり、心の安定剤だった。読書は私が眠ったあとも夜遅くまでしばらく続き、歴史書や伝記からトニ・モリスンに至るまで何でも読み漁っていた。新聞も毎日何種類もを全ページ読んでいた。・・・これがバラクの頭の中なのだ、とだんだんわかっていった。彼は社会の大きな問題にこだわり、自分がそれをどうにかできるかもしれないという無茶な考えを抱いていた。こんな人は初めてだった」。

「私の恋人は大物だった。その時点ですでに就職先として給料のいい法律事務所を選び放題だったが、本人は卒業後には人権派弁護士として活動するつもりでいた。たとえその道を選ぶと学生ローンの返済に2倍の時間がかかろうとも。周りの人はほとんど誰もが、(大変な栄誉である『ハーバード・ロー・レビュー』の)先代の編集長たちに倣って、応募すれば採用されることが確実な、最高裁判事の助手のポジションを考えるべきだと言った。でもバラクは興味を示さなかった。彼はシカゴに住みたがっていた。また、アメリカの人種問題についての本を書くことと考えていたほか、本人いわく、自分の価値観に合う仕事は企業法務を扱うような業界には見つからないだろうということだった。彼は驚くほどの固い決意とともに自分自身の人生の舵を取っていたのだ。もちろん、このように生まれながらに自信を持っていることはすばらしいが、あなたも一度そういう人をすぐそばに感じながら生活してみればわかると思う。バラクの強い目的意識とともにベッドで眠り、一緒に朝食をとることに慣れるまでには努力が必要だった。彼が特に意識の高さをひけらかしていたわけではないが、ただその存在感が強すぎたのだ。その自信、自分が世界に変化をもたらすことができるという彼のそばにいると、どうしても彼と自分を比べて気後れした」。

その後の、州議会議員、上院議員、大統領としてのバラクの目覚ましい活躍は周知のことなので、ここでは触れないでおく。しかし、ドナルド・トランプに対するミシェルの気持ちについては、明記しておきたい。「現在の大統領の振る舞いと政策が多くのアメリカ国民を疑心暗鬼に陥らせ、互いへの不信感と恐怖心を抱かせるのを見ていると心が痛む。社会のためになるよう入念に寝られた政策が次々と覆され、アメリカが大切な同盟諸国から孤立し、社会的立場の弱い人々が保護されずに人権がないがしろにされるのを見るのはつらい。いったいどこまで落ちれば底にたどりつくのだろう。それでも、決して悲観的にはならないようにしている。不安で胸がいっぱいになったときは深呼吸をして、これまでの人生で目撃してきた人々の尊厳と良識、この国が乗り越えてきた多くの困難を思い出す。不安を感じたら、私と同じことをしてほしい。この民主主義国家では私たち全員に役割がある。一票一票が持つ力を忘れてはならない」。

黒人差別の記録――。

「サウスカロライナ・ローカントリー出身のダンディ(父方の祖父、フレイザー・ロビンソンの愛称)はジョージタウンという湿気の多い港町で育った。そこではかつて、何千人もの奴隷が広大な農園で米や藍などの作物を収穫して主人に富をもたらしていた。1912年生まれの祖父は奴隷の孫であり工場労働者の息子で、10人きょうだいの一番上だった」。

「(プリンストン大学の)卒業からだいぶ経ってから、元ルームメイトのキャシーが同じ部屋で暮らしていたころの私が知らなかった事実を気まずそうに話してくれた。ニューオーリンズで教師をしていた彼女の母親は、娘が黒人と同じ部屋に割り当てられたことにひどくショックを受け、別の部屋にするよう何度も大学に訴えたのだという。彼女の母親自身も直接そのときの話をしてくれて、事実だと認めたうえでその背景を説明した。黒人差別用語が出ることもある家庭医で育ち、元保安官として町から黒人を追い出した武勇伝をよく語っていた祖父を持つ彼女は、私が自分の娘のそばにいることが『恐ろしかった』のだという。大学生当時の私にわかったのは、1年生の中ごろにキャシーが私たちの3人部屋から1人部屋に移ったということだけだった。その理由を知らなくてよかったと思う」。

今後、気分が落ち込んだときは、本書を読み返して、私は再び立ち上がることだろう。