情熱の本箱
俳句革新者・正岡子規は、過激な短歌革新者でもあった:情熱の本箱(303)

俳句革新者・正岡子規は、過激な短歌革新者でもあった


情熱的読書人間・榎戸 誠

俳句革新者としての正岡子規は知名度が高いが、短歌革新者としての子規はあまり知られていないと思う。『歌よみ人 正岡子規――病ひに死なじ歌に死ぬとも』(復本一郎著、岩波現代全書)は、短歌革新者・子規に焦点を絞っており、その面で興味深いことが記されている。

第1は、子規が、「写実」に徹した万葉集を称揚し、古今集は言葉遊びの技巧に堕しているとして評価していないこと。この考え方から、万葉集後の歌人としては、源実朝が随一と位置づけている。

「<万葉が遥に他集に抽んでたるは論を待たず。其抽んでたる所以は、他集の歌が毫も作者の感情を現し得ざるに反し、万葉の歌は善く之を現したるに在り。他集が感情を現し得ざるは、感情を有の儘に写さゞるがためにして、万葉が之を現し得たるは、之を有の儘に写したるがためなり>。・・・(誠が)『和歌の本領』だと言っている。『古今集』以下の歌集においては、『詞の綾』『駄洒落』を駆使しての『理屈』の歌に終始し、『活人事』『活風光』が詠まれておらず、詠まれているのは『腐れ花』『腐れ月』ばかりだと言っている」。

「子規は、(万葉集との関わりにおいて)実朝歌を絶賛しているのである。まず、『歌よみに与ふる書』(第1回)の冒頭部分において、<実朝の歌は、只器用といふのでは無く、力量あり、見識あり、威勢あり、時流に染まず、世間に媚びざる処、例の物数寄連中や死に歌よみの公卿達と、迚も同日には論じ難く、人間として立派な見識のある人間ならでは実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。真淵は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候>と記している」。

第2は、子規と6歳年下の与謝野鉄幹とのライバル関係が、生半可なものではなかったこと。

「子規にしても、鉄幹にしても、交流の当初から互いにライバル視していた節がある」。

明治27年に鉄幹が『亡国の音』を発表し、その中で旧派歌人たちを罵った。これに誘発された子規が、『歌よみに与ふる書』を発表したのだが、鉄幹が同時代の歌人たちを対象としたのに対し、子規が取り上げたのは歴史上の歌人たちであった。「子規が、読者に『亡国の音』と同じような衝撃を与えるには、明治31年2月14日付の『日本新聞』附録週報に掲出した『再び歌よみに与ふる書』の冒頭に見える、<貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候>との、衝撃力に富んだ発言をする必要があったのである。この発言によって、『歌よみに与ふる書』は、鉄幹の『亡国の音』に拮抗し得る衝撃を、当時の読書に与え得たと思われる」。

「子規は、鉄幹が『亡国の音』で試みたように、現存歌人を批評すること(『今様の歌を罵』ること)を通して自説を語るという方法を避けるとすると、必然的に古人の歌を批評しつつ自らの歌論を語るということになったであろうし、それを『実朝』を通して試みたのが『歌よみに与ふる書』であったと見てよいのではなかろうか。『実朝』に対比されたのが、先の『貫之』だったのである」。

「子規の『歌よみに与ふる書』の執筆意図が、実朝歌の再評価を中心に置いての、鉄幹をも含めての『いはゆる歌よみ』への警鐘と見ることは、さほど不自然な読みではないように思われるのである」。

さらに、子規は、明治34年に発表した『墨汁一滴』の中で、「鉄幹子規不可並称の説」を唱えている。「子規言うところの『鉄幹子規不可並称の説』とは、一口に言えば、鉄幹と子規を一つの範疇で括ってほしくないという主張である。『並称』とは、言うまでもなく、『並べて呼ぶこと』との意味である。それを『不可』、すなわち可と認めないというのである。・・・子規は、ずばり、鉄幹と子規は『趣味』が違うと断言している。『両者を混じて同一趣味の如く』に理解されることを拒絶しているのである。『趣味』が違えば、当然、『両者の短歌全く標準を異にす』ることになるのである。それゆえ、子規は『鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり』と、驚くほどに強く主張しているのである。鉄幹の歌の『趣味』と、子規の歌の『趣味』と、どちらを選ぶかを『世人』に迫っているのである。それゆえの『鉄幹子規不可並称の説』だったのである」。

「『理性』の人子規としてみれば、『趣味』論を核としての『歌学上の争論』をこそ、鉄幹と存分に戦わせたかったものと思われる」のに、子規の弟子の阪井久良岐が鉄幹を挑発したため、「感情」の人・鉄幹が怒り、子規の意図とは異なる不毛な言い争いとなってしまったのである。

子規が、数え年36歳で没したのは、明治35年9月19日のことであった。そして、終生、互いに存在を強く意識し合った鉄幹は、昭和10年、数え年63歳で死去している。

第3は、橘曙覧(たちばなのあけみ)を実朝に次ぐ歌人と認めた子規のおかげで、曙覧の名が広く知られるようになったこと。

「子規は。もちろん『歌人としての曙覧』の発見に驚喜したわけであるが、その背景としての曙覧の『清貧の境涯』に、自らの生活と重なる部分を見出だし共感を覚えたことも、曙覧の作品により親近感を抱いたところかと思われる」。

「(曙覧の)『志濃夫廼舎歌集』の中には『独楽吟』五十二首が収められており、子規も大きな関心を示している。五十二首の中に、<たのしみはそゞろ読(よみ)ゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人をみし時>との歌があるが、子規も曙覧の『志濃夫廼舎歌集』の中に『我とひとしき人』を見出だし、共感の思いを強くしたのではなかったかと思われる。子規は『独楽吟』の中から、まず、<たのしみはあき米櫃に米いでき今一月(ひとつき)はよしといふとき>、<たのしみはまれに魚煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食ふ時>の二首を示し、『余は思ふ、曙覧の貧は、一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は、一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと』との思いを書き記している。また、<たのしみは木芽(このめ)瀹(にや)して大きなる饅頭を一つほゝばりしとき>、<たのしみはつねに好める焼豆腐うまく烹(に)たてゝ食せけるとき>、<たのしみは小豆の飯の冷たるを茶漬てふ物になしてくふ時>の三首を示し・・・そして、また、<たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来りて銭くれし時>、<たのしみは物をかゝせて善き価惜みげもなく人のくれし時>の二首を示し・・・感激しているのである」。

「子規は、『曙覧の歌』の末尾において『歌人としての曙覧』に対して。『歌調』をも視野に入れつつ、最終的に左のごとき評価、結論を下しているのである。<曙覧の歌は、万葉に、実朝に及ばざる事遠しといへども、貫之以下今日に至る幾百の歌人を圧倒し尽せり。新言語を用ゐ、新趣向を求めたる彼の卓見は、歌学史上特筆して後に伝へざるべからず。彼は歌人として実朝以後只一人なり>」。

地道な研究が結実した、読み応えのある一冊だ。