情熱の本箱
吉田茂は、ダグラス・マッカーサーとの勝負に勝ったと自負していた:情熱の本箱(325)

情熱的読書人間・榎戸 誠

吉田茂――戦後日本の設計者』(保阪正康著、朝日選書)は、吉田茂という個性的な人物を通じて、太平洋戦争の戦前・戦中・戦後の歴史を振り返り、政治家とはどうあるべきかを考える材料を提供してくれる、読み応え十分の一冊である。

とりわけ興味深いのは、吉田が明治期の政治家たちのあり方を範とし、満洲事変から太平洋戦争の敗戦までの軍事指導者たちを「変調」と見做していたことである。「吉田が満州事変以後の日本の軍事指導者たちによる歴史事実を『変調』と決めつけ、敗戦という事態をその変調に終止符を打ったと考えていたが、その終止符を打ったあとに、吉田が考えていたのは決して『新生日本』ではなく、その変調を否定しての『再生日本』であった。再生日本というのは、明治期を成しとげた先達の精神に返ることであり、少なくとも満州事変直前からの『昭和史の再生(やり直し)』こそが吉田にとっての歴史的使命という認識であった」。

戦前の外交官時代に、吉田が英米との協調を重視していたことも注目に値する。「(駐英大使の)吉田は(駐在武官の)辰巳(栄一)に対して、次のように諭したという。『大体日本の軍部特に陸軍は、ナチス・ドイツの実力を過大評価している。第一次世界大戦で大失敗したドイツは、連合国に徹底的に叩かれ海外の領土も失ってしまった。いかにドイツ民族が優秀であるとしても、20年そこいらの間に英、仏ひいては米国を敵として戦うほど国力が回復しているとは信じられない。一方、英、米の広大なる領土と豊富なる資源を基にした工業力は、実に強大な力を持っている。しかも永年にわたって培われた政治的、経済的な底力は、とてもドイツの及ぶところではない。現在の世界情勢は、結局現状維持派と現状打破派に分かれているのだが、日本が自ら枢軸国(現状打破派)に飛び込む必要はない。むしろ日本の将来を考えたならば、明治以来の歴史を顧みても、英米側につく道を選ぶべきである。ヒットラーのあの無軌道なやり方は、近い将来必ず欧州に戦乱を招く。そして戦火が拡大して世界大戦となったとき、日本はその渦中に巻き込まれて、やがて英米を敵としなければならなくなるであろう。君は、日本が英米を敵として勝てると思うか』。吉田の信念は、明治以後近代国家として歩んできた日本は、イギリスを範とする立憲君主国として生きる以外にない、という点にあり、驚くほど英米に対しての親近感が強い。この因は、吉田の少年期の成長過程(たとえば、商人としての目とか貴族趣味を好むといったことだが)にもあるだろうが、その大半の理由は(岳父)牧野(伸顕)の継承者の地位を自覚することによって強固に培われたというべきであろう」。

終戦に向けて、吉田が水面下で努力を重ねたことは、本書で初めて知ったことである。「太平洋戦争下の3年9か月間、吉田は精力的に終戦工作をくり返した。吉田には特別の官職はなく、それゆえに政治、軍事情報の中枢からは外れていたが、終戦工作のために吉田が練った各種の案は当時の彼自身の時代認識をよく示していた」。

「吉田が終戦工作のために働きかけた政治、軍事指導層(たとえば、宇垣一成や真崎甚三郎など)は、いずれも戦争遂行指導者とは敵対ないし非同調者という立場にあった。それは吉田が、戦争遂行指導者にいかなる期待も懸けているわけでもないという意味であると同時に、吉田自身がそうした指導者からうとんじられる存在だったことをも示している。この点では、吉田の終戦工作は一定の限界をもっていた。むろん吉田は、宮廷官僚ともいうべき立場で、内大臣の木戸幸一や重臣の近衛文麿という強力なルートをもっていたが、このルートが究極には大きな役目を果たしたのである。さらに吉田は、自らの終戦工作がアメリカやイギリスに伝わることを期待していた」。

「吉田自身が進めた終戦工作にみられるこのような特徴は、実は戦争終結後のGHQによる占領支配のときのもっとも輝かしい勲章になったのである。吉田はある時代を耐えることで次の時代にそれが生きるという賭けに勝ったのだ」。

「吉田は、要注意人物ということが知られたのか訪ねる人もなく、静かに敗戦の日を迎えた。戦時下の孤独な終戦工作者の道程はこうして終わりを告げた。吉田は戦時下で一度も『聖戦完遂』を叫ばなかったという事実がのこった」。

敗戦後のGHQ占領時代、最高司令官のダグラス・マッカーサーとの勝負に勝ったと吉田が自負していたという記述には、驚かされた。「吉田茂が首相の座を退いてから著した書や自らの権勢を誇った時代を語った証言などを丹念に読んでいくと、GHQ最高司令官マッカーサーに対してきわめて高い評価を与えていることがわかる。・・・物わかりのいい人、話のわかる人、真に日本を理解した人、といった表現は、吉田が他人を誉めるときに決して用いられていない。それなのに、マッカーサーに限って、このような賞賛をなんども、しかも執拗に惜しまないのはなぜなのか。いささか奇異な感がするほどである。この奇異な感を疑問にして、吉田とマッカーサーの関係を追っていけば、実に簡単な推測に落ち着くのではないか。その推測とは、この賞賛を吉田がマッカーサーとの『戦い』に勝ったという勝利宣言の意味と理解することである。マッカーサーに対する勝利、それは何を意味するかといえば、吉田には戦略があり、その戦略にマッカーサーは巧みに乗せられたという構図である。吉田は、敗戦後の日本の進路を明確に定めていた。その進路を端的な語で語るならば、『皇国の再建』であり、『対米英への全面的な帰依』であり、その進路の阻害物でしかない陸海軍の軍事組織の解体である。吉田にとって、米英を軸にした連合国との戦争は、近代日本の軍事組織のどうにもならないほどの硬直化から生まれたのであり、半ば理性も理知をも放棄したこのような組織を壊滅させなければならないとの方向を明らかにしたのである。このことは、大日本帝国そのものの根本矛盾ではなく、たまたま近代日本の歴史そのものをも忘れてしまった軍事組織を当面は壊滅してしまわなければならないとの使命感につながっていた」。

「天皇はこうした不埒な軍事集団の囲いのなかにとりこまれ、そこから出るに出られぬ状態にされていたというのが吉田の理解である。宮廷官僚としての吉田は、そう考えることで、太平洋戦争前からの天皇の言動を解釈したともいえる。吉田が近代日本の草創期の政治家、軍人を高く評価したのは、彼らがイギリスとの協調に徹しきったからという、『明治維新当時の先輩政治家たちは、国歩艱難裡に国政に当り、よく興国の大業を成し遂げたのであるが、その苦心経営の跡は、今日よりこれを顧みるに歴々たるものがある。そうした先輩苦心の開国当初の日本外交の基本方針は、要するに英国との提携というにあった』。吉田は対英・対米関係が円滑に機能しているそのときこそ、天皇と政治、軍事指導者との間が順調に回転していると理解していたのである。その姿こそ、まさに皇国日本の理想的な姿であった」。

「吉田の戦略とは、この『一時の変調』を正す点にこそ狙いがあった。マッカーサーとの戦いとは、この『一時の変調』を正すためにマッカーサーを自らの盟友とする戦いでもあった。そして結論からいえば、吉田はその戦いに完全に勝利したわけではなかったが、相応の勝利を得たという述懐だったのである」。

著者は、概ね吉田に好意的であるが、引退時、ならびに引退後の吉田には、政治家として限界があったと指摘している。「満ちれば欠ける、というのは世のならいである。いかなる権力者とてやがて落日のときを迎え、その心理の底に眠る無聊と孤独の日々を抱えこまなければならない。歴史は自らを使い、自らは歴史を動かしたと自負しても、それは束の間の夢であったと知らなければならない」。

「吉田の国益は、アメリカと同盟関係に入ることによって、そしてアメリカを利用することによって『経済再建』から『経済自立』『経済大国』という計画に重ね合わせられた。だが吉田が錯覚していたのは、再生日本の土壌があの変調期の社会構造とはまったく異にしているとの理解が不足していたことだろう。臣道の実践とか東亜の解放とか、あるいは日本浪漫派であろうと、とにかく天皇主権説を容認しての国民的コンセンサスなどつくりえない時代であることを吉田は充分に理解しなかった。天皇をもちだせば、すべての国民が平伏した時代、いや再生日本を構築中の占領期にマッカーサーの名がでればどのような難題も解決した時代、吉田はその時代の政治感覚をそのまま引き継いで講和条約発効後の政治姿勢としたところに、『満ちれば欠ける』の落とし穴があったというべきであろう」。

「吉田はこうして歴史の表舞台から消えた。76歳だった。退陣に至るまでのプロセスは、まるで昭和20年8月の日本がポツダム宣言を受諾するときのドラマと似ていた。吉田は『本土決戦』に固執した軍部と同じ役割を演じていたのである」。

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