情熱の本箱
足利義満は虚構を愉しむ達人で、金閣寺はそれを象徴する仮想現実空間だった:情熱の本箱(327)

情熱的読書人間・榎戸 誠

室町の覇者 足利義満――朝廷と幕府はいかに統一されたか』(桃崎有一郎著、ちくま新書)では、足利義満のみならず、義満の祖父・足利尊氏とその弟・直義についても興味深い見解が示されている。

「尊氏は戦うと強いが、優柔不断で受動的で、正念場で政治的決断ができない。室町幕府を創ったのは、そんな尊氏をやる気にさせ、時には尊氏の意思さえ置き去りにして、既成事実を積み重ねて足利幕府の始動に邁進した足利一門と、彼らを束ねた直義だった。彼らは尊氏に北条氏との決別を迫り、決意させた。直義は、表に兄尊氏を『次の将軍』として立てながら、『次の幕府』の行政を取り仕切る『次の執権』として、幕府再生の事業に没頭した」。すなわち、実質的に室町幕府を創ったのは、尊氏ではなく直義であり、尊氏は直義の神輿として担がれただけだというのである。

「歴代将軍を悩ませた歴代鎌倉公方の反逆の原点は、観応の擾乱にある。それが最も腑に落ちる理解だ。すべては、室町幕府を直義が創り、鎌倉に(原型の建武鎌倉府を)創ったことに起因する。直義はベストを尽くした。しかし、彼には酷だが、それを兄尊氏ではなく弟直義がしたこと自体が、そもそもの間違いだったのだ。その最初のボタンの掛け違いに、室町幕府がどれだけ振り回され続けたか。それはどれほど強調しても、しすぎることはない。そして、鎌倉公方成氏の行動が関東を戦国時代に放り込んだのなら、関東の戦国時代の最大の遠因を作ったのは、直義だといっても過言ではないのである」。尊氏が名を取り、直義が実を取るという役割分担が室町幕府の基本的性格を規定してしまい、それが、後の室町幕府滅亡に至るまで、強い影響を与え続けたというのだ。

尊氏没後に跡を継いだ息子の義詮には、この役割分担の悪影響を正す力がなかった。「延文3年に尊氏が没し、義詮が29歳で将軍を継いだ。尊氏は優柔不断だが、信頼できる記録は口を揃えて、彼が大物で人望もあったという。その彼の存在は、有力大名たちの暴走に対する多少の抑止力にはなった。しかし、義詮を武家のボスとして褒めた記録は皆無で、むしろ器の小ささを父尊氏や叔父直義にさえ見抜かれ、それを補うために(義詮の弟)基氏に鎌倉府を与えて牽制させたのだ、という証言がある。若く経験不足で、戦も弱く、そもそも打倒北条氏・打倒建武政権の戦争をともに戦っていない義詮が、父尊氏の存在感なしに、歴戦の猛者である大名を統制できないのは明らかだ。将軍職を継いでから4年後の貞治元(1362)年、義詮は白幡を掲げた。斯波高経を管領の地位に就け、幕府の執政を全面的に任せたのである」。

この何とも情けない義詮の跡を継いだ、義詮の息子・義満が、幕府の役割分担のマイナス面を正したのみならず、幕府と朝廷(北朝)の統一を実現し、さらに南北朝の分裂を終わらせたというのが、著者の主張である。「父の(38歳での)死で将軍を継承した時、義満は10歳で、幕府は管領細川頼之の主導で運営されたが、南北朝の分裂は終わらなかった」。22歳になった義満は、後見人なしに真の将軍として振る舞い始める。「無益な戦争を続ける南朝も、簡単に将軍に反抗したり結束して将軍に我執を押し通す大名も、自分を制約する者はいつか必ず消えるべきだ。(支配欲旺盛な)義満は生涯、そう信じ続けた」。

義満は、自ら戦略を決定する。「北朝も幕府も温存し、義満が将軍であるまま、朝廷の一員となり、朝廷の主導者となるのである。義満が、幕府代表と朝廷代表という2つの顔を持つ。それなら、義満という1点(だけ)を介して、朝廷と幕府は従来の形を保ったまま結合し、1つの大組織の2大部局という形になれる、そして義満が北朝を代表して南朝と講和する。これが義満の、全く独創的な、南北朝講和を可能にする唯一の妙手だった。かくして、南朝との講和に必要な絶対条件が2つに絞り込まれた。1つは、まず北朝を掌握し、南朝と対等講和できる形式を整えること。もう1つは。南朝に味方する大名の力を削り取り、南朝が独立路線を諦めるよう導くことである」。義満が、この戦略を着々と実行に移していった過程が、克明に記されている。

義満の並外れた女好きが指摘されている。「①後円融(上皇)は後宮女性と義満の密通を疑った。②後円融は三条厳子を傷害した。③後円融が義満を憎悪した時期は、厳子が妊娠を自覚し始める時期と一致する。④後円融は、産後間もない厳子を無理に自分の手許に呼び戻した。以上の状況証拠は、後円融が厳子と義満の密通、特に厳子が義満の子を妊娠したと疑ったことを示している。この疑惑が真実か否か、確かめる術はない、しかし、義満が他人の妻妾を欲しがったのは事実だ」。上皇の女にまで手を付けるという傍若無人ぶりには驚かされる。

「その超越的な権力を、なぜ義満が振るってよいのか、彼は説明も正当化もしなかった。強いていえば、義満が廷臣の誰も対抗できない武力を持ったこと、つまり『力こそ正義』というのが、義満の行った最大の正当化だった。では、この地位を人はどういう概念で捉え、呼べばよいのか。そんなものを指す概念も、呼ぶ言葉も、従来の日本にはなかった。しかし、義満はそれらを用意した。『公方様(くぼうさま)』という概念と、『室町殿(むろまちどの)』という名である」。

「義満は、朝廷(北朝)を代表する主導者になった。あとは、大名を屈服させて南朝に寝返らない体制さえ作れば、南朝の吸収合併は可能だ。そこで義満は、守護大名の一族や地方社会の団結に楔を打ち込み、じりじりと大名を弱らせる作業に移った」。

「義満は応永6年頃から北山に定住し始める。応永の乱の引き金となり、それを克服した上で成し遂げられた北山第の完成と移住は、朝廷に加えて幕府の長としても達成した真の最高権力者の象徴である。それは、観応の擾乱という負の遺産を清算した証だった。その後、義満は『北山殿(きたやまどの)』や『北山殿大御所』と呼ばれ始める。・・・義満の出家を境に、『室町殿』は、『朝廷・幕府を内部から支配するそれぞれの長』から『朝廷・幕府を外部から支配する超越者』へと変貌した。そして、京都は朝廷の実体そのものであり、幕府の所在地でもある。とすれば、義満は朝廷・幕府の外にある人間だという理念を示すために、京都を出ざるを得ない。その彼が、京都内部の地名『室町』を使い続けるのは矛盾している。そこで、京都の外の地名を使って、『北山殿』という称号を新たに作った。『室町殿』の時と同様に、また邸宅名を社会的地位の名に転用したのである」、ここに、義満は、遂に、ゴールに達したのである、

私の目から鱗が落ちたのは、次の指摘に接した時である。「義満が没する応永15(1408)年までの10年間、北山は日本の政治の中心だった。その通りなのだが、北山の真価はそこにはない。北山は、義満の独創性の真骨頂だ。彼が創ったのは、日本の宮殿史上、恐らく最初で最後の『仮想現実空間』だったのである。・・・義満は北山第を熱心に、現実世界から遮断された虚構空間として運営した。・・・『愉しむ』は、義満を理解するキーワードである。かつての義満像に決定的に欠けていたものこそ、『遊び心』という視点だ。義満は虚構を愉しむ達人だった。義満は光源氏を演じていたのではないか、という仮説がある」。

「義満の『虚構を愉しむ』姿勢の証拠は多い。最も顕著なのは義満の『狂言』愛好である。『狂言』というと伝統芸能の喜劇を誰もが思い浮かべるが、本来は『冗談』のことだ。・・・観阿弥・世阿弥親子の台頭も、義満の並々ならぬ『狂言』愛好と無関係のはずがない。義満は猿楽(申楽)を愛好した。猿楽は猿楽能ともいい、平安時代以来の、宗教的要素など雑多なものを抱え込む大衆芸能だった。それが、世阿弥の手を経て2方向へ分化してゆく。周知の通り、『能』と『狂言』である。『能』は、謡と舞(身体的な技能)で、現実世界と虚構世界が渾然一体となる不思議な世界観を表現する。『狂言』は、滑稽な筋書きや言葉の掛け合いの、狂言猿楽という滑稽劇をベースに、コメディに特化したものだ。能・狂言は演劇なので、それ自体が虚構である。しかし、世阿弥が完成した夢幻能という手法では、登場人物の前に異世界の存在(神や死者の霊・鬼・精など)が現れて、夢や幻の中で、土地の伝説や身の上を語る。虚構世界(劇)の中に、虚構世界(夢幻)が二重に現れるのだ。そこまで虚構の効用を磨き抜いた芸を創った世阿弥のパトロンが、義満だった」。

「義満は、社会生活の物理的な空間そのものを、現実世界(京都)と虚構世界(北山)に切り分けるという離れ業をやってのけた。・・・北山とは、その一種の天才が未知の権力を創造した発想革新の壮大な実験場なのであり、そして生活や政治の中に娯楽的な虚構の物語が常に染みこんでいる、アトラクションなのだった。当時の姿をほぼ完全に再現した金閣(正式名は鹿苑寺。1955年に再建)は、それを偲ぶよすがである。・・・それはファンタジーなのであり、それこそが、そこに虚構世界を作りあげた義満の壮大な実験の痕跡なのである」。

桃崎有一郎の雄大な構想力には脱帽あるのみだ。

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