情熱の本箱
三浦梅園のことを知りたくて、本書を手にしたが・・・:情熱の本箱(362)

情熱的読書人間・榎戸 誠

三浦梅園のことを知ろうと、『松岡正剛の千夜千冊』の「三浦梅園『玄語』」を読んだところ、松岡正剛が、梅園を高く評価していた湯川秀樹から、「三枝博音さんのものを読んだらどうや」と言われたと書かれているではないか。

そこで、『日本の思想文化』(三枝博音著、中公文庫)を手にした次第である。

「第三章 日本の知的文化」の「三 論理思想の誕生(三浦梅園)」には。こう記されている。

「今から160年ばかり前に、『玄語』というわが思想史上画期的な著述が完成された。著者は三浦梅園である。それは、その字数『十余万言』といわれているほどに、大部の著作である。・・・完成までに二十数年を要している。・・・彼は叙述を補うために160余の図をも付している。尚、この書の中には、他人の学説や文章は引用するところが更にない。論理学のなかった日本人の思想史の上では、この人とこの書を措いては、日本人の論理思想を語ることはできないほどである」。

「彼は儒教的教養から成長したが、いわゆる儒者ではない。彼は日本の近代的学的思潮が生んだ一人の思想家である。・・・彼は彼以前の日本の学者の中に、その型を見出すことのできない思想家である。梅園の時代になると、この型の思想家を他にも見出すことができる。安藤昌益と皆川淇園とが先ず挙げられねばならない」。私の尊敬する安藤昌益の名が出てきたぞ!

「梅園が創唱したものは『条理』という学問であった。・・・事物の間に必ず条理があるという考えは、必ずしも新しくないが、その事物そのものを経験に訴えてさぐるという学問態度は、梅園を俟って特に学風を形成するようになったのである。・・・梅園の気の論の特徴は弁証法的なる点にある。そして又彼の条理の学が弁証法的である。彼において論理思想の発達を指摘するのは、懸ってその条理の学の中の弁証法的性質にあるのである。・・・梅園における弁証法的思想の発達はあまりにも顕著である」。

「梅園では一語たりとも、それの対立概念なくしては、意味をもたない。対立の論理思想は彼の思索の全体を貫いている。はじめは先ず漠然たる区別なるものを考え、これと差別(梅園では『比』)なるものとを区別し、更にそれが、『反対』又は『対立』、更に『矛盾』の意義をもつ場合を考えたのは、ヘーゲルである。このことは弁証法的思想家にとって必然のことである。梅園は『対に反あり、比あり、互あり、汎あり。彼此相証するものあり。審にせざれば即ち失せんと。是れ斯の語(玄語)の文法なり』といっている。詳述はここに省かねばならないが、真の対立は比でなくして、反でなくてはならない。『比』では『彼此偕に有る』のみで、並立にとどまっている。反にしてはじめて弁証法的である。合うということと分つということの対立は彼の叙述のすべてに顧慮されている。『分れて反す。合して一なり。是を以て反観合一なり』。反観の法はかくして条理の学の骨子である。私が特に彼の論理をヘーゲルに比するものは、梅園の反観の法の中には、ヘーゲルのいわゆる悟性的契機が顕著であるからである。反するというとき、真に反対し対立するのでなければ、弁証法的ではない」。

「読者はすでに、梅園の弁証法は、単に観念論的思弁にもとづかずして、自然弁証法であることを、推知されたであろう。『対峙は天地の条理』であり『配当は人為の処置』であることを彼は明瞭に認識している。『条理は天地の準』であることは彼の確信である」。

梅園が日本の思想史上画期的な思想家であり、自然弁証法に基づいて思索を深めたことは分かったが、まだまだ入り口に立ったに過ぎない。梅園の思想を知る旅を、さらに続けようと考えている。

Tagged in: