情熱の本箱
葵上は冷たい女か、女性を嘗め回すような源氏の視線とは、濡れ場の実態は――『源氏物語』を楽しむための本:情熱の本箱(364)

  

情熱的読書人間・榎戸 誠

『源氏物語』の現代語訳は、林望の『謹訳 源氏物語』(林望著、祥伝社、全10巻)が最高と考えているので、『源氏物語の楽しみかた』(林望著、祥伝社新書)を手にした。

期待を裏切らぬ内容だが、とりわけ印象に残ったのは、「正妻、葵上は冷たい女だったか」、「玉鬘を、まるで嘗め回すようなねっとりとした源氏の視線とは」、「濡れ場に『実事』はあったか」の3つである。

●正妻、葵上は冷たい女だったか――

「いわばこの姫(葵上)は、『あらかじめ約束された不幸』のもとに登場してきたのである。・・・美しい少年だったのだが、葵上の目から見た源氏は、『ずいぶん幼いのね・・・なんだか不釣り合いで気詰まりだこと』という印象であったと書かれている。・・・自分でも恋しいとは思えない男(しかも葵上から見て源氏は四つも年下であった)と結婚させられて、なにも悪くないのに右大臣家に恨まれて、しかも源氏からも、さっぱり愛されない。こんな不幸な目に遭わされて、それでも夫を温かく愛することができる女がいるだろうか。まず、そこをよく案じておかなくてはならぬ」。

「源氏はその時、どんな態度を取ったかといえば、中納言の君だの中務だのいう、葵上付きの若い女房たちに戯れかかった、というのである。どうやら、この中納言などは、源氏のお手付きであったらしいから、結局、源氏の意識にあったのは、(葵上の)父左大臣であり、お付きの女房たちであったとなれば、いかに当時の貴婦人は今の女衆とは心がけが違うといっても、そんな夫を相手に、心を許して打ち解けようと思えるはずもなかったと、そういうふうに、作者は筆を運んでいるように思える。・・・(源氏の)こういう思いは、いかにも男の身勝手で、どんな女性だって、さんざん自分を蔑ろにして、あちこちの女に戯れ歩いている夫が、たまに帰ってきたとして、その旅先の話を愉しく聴きましょうなどと思うだろうか。そういう自然な感情として、ここは、私には理解される。しかし、源氏は、ますます疎ましく思う。二人の心はどんどんと乖離していく・・・それは当たり前である。・・・こうなれば、夫婦としての情など生まれようはずもない。この夜源氏は、葵上のもとに宿ったが、しかし、閨(ねや)に入っても葵上はいっこうに入ってくる気配もない。源氏は、入ってこいと誘うべきか、どうしようか、などとイジイジしながら、さてその心中には何を思っていたか。・・・源氏は葵上のやってこない閨で、もっぱら他の女達のことを懊悩しつつ輾転反側していたのに違いない。葵上のストライキは、かくて何ら奏功しなかったのであった」。

「この最期の最期に、じっと源氏を見つめていた葵上の心事を想像すると、まことに哀切な、そして死ぬ直前の諦め切れぬ執念、のような情を感じるのは、私だけではあるまい。そのように作者は用意深く書いておいたのである。そして、この直後、容態は急変し、葵上は、源氏不在の床で息絶える。源氏はその死に目に会えなかったのである。このことこそは、おそらく葵上の、最後にして最大の、源氏への復讐であったかもしれない。物語には、一見あたかも、葵上は冷淡で人情を解しない女のように描かれているけれど、こうして、丹念にその描かれ方を跡付けてみると、彼女は決して冷淡でも人情を解しないのでもなかった。もし、読者のどなたでも、同じ立場に身を置いてみることを想像したならば、誰が葵上を言い譏ることができようか。いわば、女としての、妻としての当たり前、そういう感情を、読者諸賢も等しく共有し得るのではあるまいか」。

この件(くだり)を読んで、葵上に深く同情すると同時に、何とも身勝手な源氏をますます嫌いになってしまった。

●玉鬘を、まるで嘗め回すようなねっとりとした源氏の視線とは――

「こう言いざま、源氏は玉鬘の手を取った。実力行使に出た源氏の、あまりにもあからさまな行動。ここは読者が、さぞハラハラとしたところであろう。すると、玉鬘は<いとうたておぼゆれど、おほどかなるさまにてものしたまふ>という反応であった。内心はいやでいやでたまらないけれど、おっとりとした様で歌を返すのである。・・・このへたに騒ぎ立てることもなく、おだやかに歌を返すというところ、玉鬘という人の聡明さ、また一面、苦労人としてのしたたかさ、なども感じられる。こうしてしかし、源氏は、『父親の仮面』を脱ぎ捨てて、俄然、一匹の男になった。ここから、筆意は男の視線に同調して、まるで嘗め回すようなねっとりとした描写に移っていく。・・・うつ伏している玉鬘の姿を<いみじうなつかしう>つまり、ひどく心惹かれてどうにもならぬ源氏がいる。その目には、玉鬘の手のぽっちゃりと脂づいた色気、また女性的なまろまろとした肢体、と睨(ね)め回していって、さらに視線は細密な観察に至る。肌がすべすべとしていかにもかわいらしい・・・こんなに視線が接近して、毛穴の一つ一つまで嘗めるように見ている源氏は、<なかなかなるもの思ひ添ふここち>がした、とある。こんなに近づいて、かえって悩ましさは募るばかり・・・このあたり、ほんとうに式部は男かと思うくらい、男の性愛心理をよくよく捉え得ているのに感心せざるを得ぬ。今やまさに、ルビコン河を渡ろうとする源氏! これから濡れ場のなかの濡れ場になっていくのだが、ひとまずここまでにしておこう」。

「この緩急自在、そして男女の心理を綾なして進んでいく文章の力、これこそが源氏物語の真骨頂にして、古今独歩の世界なのであった。嗚呼!」。

●濡れ場に「実事」はあったか――

「夜暗くなると男が通ってくる、そして女の閨に迎えられて一夜を共にし、暁のまだ暗い時分に帰っていく、とそれが日本の『恋の形』であった。そこには、したがって、常に肉体性が伴っていたのは当然で、男女が閨を共にしてなお何もしない、などというのは奇々妙々なることであった。男と女は、共寝をして、肉体的に結ばれて、そして以て、恋という感情を共有する、それが当たり前であった。・・・ところが、『源氏物難』では、当たり前のことは書かない、ということが一つの原則としてある。なぜなら、この物語は、時代・階級・空間・常識・教養・生活体系と、さまざまなものを共有する人々の間で楽しまれた『仲間内』の文学であったからだ。・・・となると、恋に肉体的な交わりが前提されていることは自明のこと、みんな分かり切ったこととして共有している以上、その『行為』を微細に露骨に書いたりしなかったのは、これまた理の当然というものであった」。

「そこで、実際に『源氏物語』を読み進めていく時には、どこでその肉体的な交渉(これを『実事(じつじ)』と呼ぶ)を持ったかということを、具体的に『想像』しながら読んでいかないといけない」。そこで、その「実事」のありようを、源氏と紫の君との新枕、柏木と女三の宮の密通、夕霧と落葉の宮――の3場面で実地検証している。

詳しい引用は控えるが、「この物語では、実事をなした後、女はほとんど必ず起きられない。そういう描写のなかに、前夜の房事の熱烈なありようが仄めかされているのである」、「『源氏物語』の濡れ場は、決して露骨ではないが、ひとたびそこに『想像』の力を借りて読むと、のっぴきならぬエロスが光芒を放って見えてくる」とある。

『謹訳 源氏物語』全10巻を再読したくなってしまった私。

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