情熱の本箱
岡田英弘の『歴史とはなにか』は、まさしく、名著である:情熱の本箱(388)

  

情熱的読書人間・榎戸 誠

対談集『考えて、考えて、考える』(丹羽宇一郎・藤井聡太著、講談社)の中で、読書家として知られる丹羽宇一郎が藤井聡太に読むことを勧めている『歴史とはなにか』(岡田英弘著、文春新書)を手にしたが、これは、まさしく、名著である。歴史好きを自任する私が、本書を知らなかったことは汗顔の至りである。

私の目から鱗が落ちた著者の鋭い論考を、私なりにまとめると、こうなろうか。

●司馬遷が創った中国文明の歴史の本質は「正統」の観念であり、彼が『史記』で言いたかったのは、彼が仕える前漢の武帝こそが正統の天子だということ。

●陳寿が著した『三国志』は、蜀の皇帝も呉の皇帝も皇帝と認めず、魏の臣下並みに扱っている。その上、劉備は「漢」の皇帝と称したのに、この正規の国号も無視し、「蜀」としている。後漢の正統を承けたのが魏で、魏の正統を承けたのが、陳寿が仕える晋だという立場に立っているからである。

●『三国志』の著者の陳寿にしてみれば、自分が仕える晋の帝室の祖先の司馬懿が権力を握った糸口は。238年の公孫淵征伐の成功だったのだから、現皇帝の権力の基礎が築かれた天地は東北アジアということになる。こうした理由から、『三国志』に東北アジアの記述を落とすわけにはいかない。『魏志東夷伝』はこうした政治的な理由で書かれ、その一部が『魏志倭人伝』と呼ばれているわけだ。倭の邪馬台国女王・卑弥呼が「親魏倭王」となるのは239年である。魏の新皇帝を補佐し、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を贈ったのは、卑弥呼の使の仲立ち役の司馬懿の顔を立てたものである。「魏志倭人伝」の里程や方位が現実を無視しているのは、邪馬台国の位置を南に伸ばして、当時の敵国である呉の背後に持っていく意図があったからだ。

●漢人の南朝の陳を滅ぼして天下を統一した隋の皇帝は、遊牧民の鮮卑の出身だった。その隋から天下を引き継いだ唐の皇帝も、やはり鮮卑の出身である。すなわち、隋も唐も遊牧民の征服王朝なのである。

●北宋時代の漢人、いわゆる中国人の大部分は、血統の面では、実は隋・唐時代の中国人の主流であった遊牧民の後裔だったが、意識の面では、自分たちは秦・漢時代の最初の中国人の直系の子孫であり、純粋の漢人だと思い込むようになっていた。この時期に初めて芽生えた、こうした思い込みを「中華思想」という。

●正史の伝統に養われた中国人が『元史』を読むと、元朝が、あたかも遊牧民が中国に入って作った中国式の王朝であったかのような誤解が生まれる。実際には、元朝は純然たる遊牧帝国で、漢字で綴った官職名を使っていた点を除いては、中国式の要素はほとんどない王朝であった。

●13世紀にモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西にまたがって成立した時から、世界史が始まった。

●地中海文明の歴史を創ったヘロドトスは、世界の変化を語るのが歴史であり、世界の変化は政治勢力の対立・抗争によって起こる、ヨーロッパとアジアは永遠に対立する2つの勢力だと捉えていた。

●天武天皇の命により編纂に着手した『日本書紀』の天照大神や神武天皇の神話は、ちょうど編纂が進行している時期の、同時代の経験がもとになって組み立てられている。だから、これらは、遥かに遠い時代からの記憶の反映でも何でもない。神武天皇から応神天皇までの歴代天皇は7世紀の創作である。

●『古事記』は、江戸時代に本居宣長が新しく作り直したもので、最古の歴史書ではない。

●江上波夫の騎馬民族征服王朝説は、完全なるファンタジーである。

もう一度言おう、本書は名著である、と。

Tagged in: