情熱の本箱
ノモンハン事件を引き起こした秀才参謀、辻政信と服部卓四郎の許されざる罪:情熱の本箱(394)

  

情熱的読書人間・榎戸 誠

ノモンハンの夏』(半藤一利著、文春文庫)では、昭和14(1939)年5~8月、日本陸軍が満州国西部とモンゴル人民共和国の国境地帯でソ連・モンゴル連合軍と戦い、ソ連の大戦車軍団の前に大打撃を受けたノモンハン事件の刻々と変化する様相が、ドキュメンタリー・タッチで臨場感豊かに描き出されている。

透徹した歴史観を持つ半藤一利が、本書によって訴求したかったのは、3つのことだと私は考えている。

第1は、エリート中のエリートたる陸軍参謀・辻政信(陸大36期)と、その上司・服部卓四郎(34期)の身の程を弁えぬ傲岸不遜な思考・行動への激しい怒りである。

第2は、辻・服部の大局観を欠いた暴走を止められなかった陸軍首脳部の情けなさ、もどかしさへの大いなる不満である。

第3は、ノモンハン事件の失敗から何も学ばず、無謀な太平洋戦争に突っ込んでいった日本という国の無反省な体質への遣るせない失望感、無力感である。

「参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦課)には、エリート中のエリートだけが集結した。・・・花形はだれが何といおうと、作戦と戦争指導を掌握する第二課。そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。すべての根基となる作戦計画は第二課で立案された。天皇の勅許をえて大元帥命令(奉勅命令)としてそこから発信され、かつ下達された作戦の指導も作戦課の秀才参謀たちによってなされる。そこでたてられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその策定については外からの干渉は完璧なまでに排除された。・・・陸軍中央に秀才軍人たちが集結してくると、ものの考え方は奇妙なくらい現実離れしていく傾向があったのである」。

「ここに関東軍司令部の第一課(作戦)参謀辻政信少佐が颯爽と登場してくる。・・・作戦参謀として辻は、当面している情勢が多端であり関東軍の兵力が劣勢であることは十分に承知している。そうと認識すればするほどさかんなる闘志をもやした。停戦成立の直後、張鼓峰付近の戦場へと飛んだ辻は、死傷1400名余の犠牲者をだしながら、日本軍が兵力を撤収し、ソ連軍が越境の既成事実を確保し、国境線を拡大形成していることに憤激した。・・・ソ連になめられないためにも、ソ連軍が国境を侵犯してきたときには即座に一撃を加え、これを粉砕することが、紛争の拡大を防ぐことになる。いや、それこそが唯一の道といえる、と辻はいきり立った」。

「関東軍作戦課はいまや、目鼻のはっきりしない参謀本部作戦課の集団主義とは違って、作戦参謀辻政信とかれをバックアップする作戦課主任参謀服部卓四郎という、きわだって戦闘的な二人を中心にして、独自の道を驀進しはじめた。東京の秀才的集団主義に対抗する新京の暴れん坊的個性主義の挑戦なのである」。

「このとき、国境での衝突があのような大戦争になろうとは、だれひとり考えてもいなかったことを証明する。なぜならだれもがソ連軍の猛攻撃などあるべくもないと思っていたからである。当時の陸軍軍人は高級であればあるほど、自国の軍事力への過信と、それと裏腹なソ連軍事力への過小評価の心情をもっていた。共通して対ソ戦力への評価は観念的なもので、機械化戦力を充実しつつあるソ連軍備についての、客観的な分析はごくおろそかにされている」。

「問題なのは、この(日本軍の)空襲がハルハ河の西岸、すなわち日満側の主張する国境線を越えて行われていることである。まだ小競り合いの段階ですでに堂々と国境侵犯を日本軍は行っている。それを小松原(道太郎師団長<中将、18期>)も辻も、ほかのだれもが、挑発と感じないのみならず一毫の疑問すらなげかけていない。いったいいつのときから日本陸軍は、天皇の命令なくして国境を侵犯することに平気になったのか。満洲事変いらいの『勝てば官軍』意識にはじまる退廃は、『ここにきわまれり』であったのである」。

「辻は(ソ連軍により)軍橋が爆破されたのを見届けると、何もいわずにそのまま東方へ姿を消した。自信満々にたてたソ連軍殲滅作戦が失敗に終ったのを、辻はどう思ったことか。・・・関東軍作戦課の根拠のない増長慢がうんだと簡単には書けない、あまりにも大きい犠牲であったのである。こうして日本軍の外蒙古領への侵攻作戦は二昼夜で挫折した。これ以後、日本軍がハルハ河西岸のモンゴル領へ進出したことはない。戦闘はすべて東岸で行われることになる」。

「軍隊の下層の人たちはみんな、この優秀とみなされた吼える男たちによって働かされ、戦わされて死んだり傷ついたりするのである。しかも、その犠牲の上にかかる男たちの出世の道がある。秀才参謀は机上の作戦計画に一点の疑いもはさむことはない。なにしろ兵は『一銭五厘』でいくらでも補充できる存在なのである。だから辻は、安心して吼えていた」。

「ソ連軍の圧倒的な兵力と火力による総攻撃をうけた第1日目から、第一線将兵は勇戦すれど、戦況はどこの日本軍にも容易ならざることになっている。そして日をおって絶望的になる。・・・多くの将兵の壮絶な敢闘と空しい死がそこにあるだけである」。ソ連から振り下ろされた鉄槌は、二度までも秀才参謀たちの幻想を打ち挫いたのである。

「関東軍は5月いらいずっと『確信』をもって作戦を実施し、そのたびに失敗した。将兵を飲まず食わずで、弾薬がつきてもなお戦わせた。しかも補給や救援の手段はいっさい考えていなかった。そして幻想と没常識な作戦指導で、いかに多くの将兵を死なせたかに思いをいたすものはなかった。・・・死者は黙して語らないから正確な(戦没者)数はとうてい知ることはできない。わかることは、第一線の将兵がおのれの名誉と軍紀の名のもとに、秀才参謀たちの起案した無謀な計画に従わされて、勇敢に戦い死んでいったということだけである」。

ノモンハン事件から太平洋戦争へと突っ走り、多くの死傷者を生じさせた陸軍への怒りがひしひしと伝わってくる。そして、決して戦争はしてはならないという半藤の堅固な信念が底流を成す、力の籠もった著作である。

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