魔女の本領
この世に求められた絶対平等主義的社会の夢…

 千年王国

 『千年王国の追求』ニーマン・コーン


著名な本であったが未読であったので、読んでみた。原著の出版されたのが1961年で、その改訂版が1970年で、翻訳が1978年である。この事が本書がマルクス主義的な視点を持って、書かれていることを意識せざるを得ないが、それから数歩踏み出しているという点で、名著としての価値が現在ももち得ていると言えるであろう。

本書は、11世紀から16世紀にかけてヨーロッパの貧民を魅了した千年王国の幻想をその社会状況から浮かび上がらせたものである。

「千年王国主義」の最初の意味は狭くて明確であった。キリスト教は、「終わりの時」、「終わりの日」あるいは「この世の終わりの姿」に関する教理という意味で、常に一種の終末論を内包してきた。そしてキリスト教的千年王国主義はキリスト教的終末論の一変形に過ぎなかった。それは、キリストが再臨の後、地上にメシア王国を立て、最後の審判前の一千年間そこを統治するであろうというヨハネの黙示録(20・4-6)を拠り所にして、或る種のキリスト教徒たちがいだいた信仰を指していた。

千年王国主義の宗派(セクト)や運動が常に描くところの救世観は次の通りである。

1.それは信者たちが共同体として享受するものという意味で、共同体的である。
2.それは彼岸の天国においてではなく、この地上において実現されるという意味で、現世的である。
3.それは間もなく忽然と現れるという意味で、緊迫的である。
それは地上の生活を完全に変えてしまうので、新しい制度は単なる現状の改善ではなく、完璧そのものとなるという意味で、絶対的である
4.それは超自然的力によって、あるいはその力をかりて、完成されるという意味で、奇跡的である。

本書を読むまで、宗教改革といえばルター、せいぜいミュンツァー、くらいの認識であったが、ルターが出る以前にヨーロッパの民衆とりわけ貧しい人々は、連綿とこの世の王国を希求して戦っていたことに愕然とした。それは、ローマ、カトリックの宗教者たちの堕落を日々眼にしていた民衆に取って、宗教の本当の意味を考えざるを得なかった。すでに十字軍の召集がなされた時には、同時に貧民の十字軍がそれに連動してエルサレムを目指していた。正規の十字軍は政治的な意味があったであろうが民衆にとっては、激情的な宗教心がその支えになっていた。貧しきものはビザンチウムのキリスト教徒を救済することにはさしたる関心がなく、エルサレムにたどりつき、そこを奪取し、そして占領することにひたすら関心を燃やしていたのである。キリスト教徒にとってこの世で最も神聖な都市が、約4世紀半の間回教徒の手中にあった。貧しい民衆にとってはその奪回の期待こそ興奮剤であったのである。彼らの眼には、十字軍は武装した戦闘的巡礼、もっとも偉大でもっとも崇高な聖地詣でとして映じていた。彼らにとって十字軍とは、なによりもまず集団的な「キリストの模倣」であり、エルサレムにおいて集団的に聖化されるという功徳を予定された集団的犠牲行為であったのである。

エルサレムはヨハネの黙示録にある通り、時の終わりに際してそれに取って代わるはずの「高価な宝石のような」聖都の「表象」もしくはシンボルであった。同時代人が記しているように、素朴な民衆の心の中では地上のエルサレム像が天上のエルサレム像と混同されたため、パレスチナにあるあの都市そのものが霊的にも物質的にも恵み豊かな不思議の国と思えたのも無理からぬことであった。

「民衆十字軍」の大部分の者―おそらく殆どの者たちーはヨーロッパを横断する旅の中途です姿を消したが、シリアやパレスチナに達するまで生き残り、そこで流浪者の一団となったものもいた。

これ以後、この世に千年王国を求める民衆の宗教行動は連綿として続き、鞭打苦行運動や、自由心霊派、フスの農民一揆、トーマス・ミュンツアー、ルター、アナパプティズム、ランターズなどが挙げられる。

これら、革命的千年王国運動が盛んになるのは、ある特定の社会情勢の中に限られている。中世の時代には、それが最も訴えかけた民衆の層は農村と荘園にしっかり統合されている農民たちでもなければ、ギルドにしっかり統合されている職人たちでもなかった。農村と都会の別なく、組織の基盤を持たないアトム化された住民層の存在する地方にあらわれた。このことは16世紀オランダやウエストファリアにかんして言えるように、12,13世紀のフランドルや北フランスについても言える。15世紀初頭のボヘミアについても同じことが言える。革命的千年王国運動は社会の末端部に生きる住民―土地を持たない農民や、持っていても一家を支えるに足りない農民、失業の不安に絶えず脅かされながら暮らしている渡り職人や不熟練労働者、乞食や浮浪者―から力を吸いあげ、単に貧しいばかりでなく、社会の中にそれと認められる確固たる位置を持たない無定形な群集からなり、
これらの人々には伝統的社会集団によって与えられる物質的・感情的基盤が欠落していた。彼らの血縁集団は崩壊しており、そのために彼らは農村共同体やギルドの中に一員としてうまく融け込むことができない人々であった。かれらには、自分の不平を声に出し、自分の要求を訴える、正規の制度化された方法がなかった。そのかわりに、彼らは預言者が自分たちを独自の集団として結束させてくれることを待っていた。

社会的不安が高じて動乱の状況が起きると、幻想としての千年王国が目指され、それを説く預言者が現れる。これの繰り返しである。その根本精神は、原始的な自然状態による絶対平等が希求されることである。そのための戦いとして、俗的、宗教的権威者がアンチ・キリストとして指弾され、全面的な武力対立となり、血生臭い暴力革命となる。

本書は哲学書ではないので、これらの預言者たちの宗教理論がいずれの物であったかについては、かなり一律に扱われている点は否めないが、常に生命の生存のぎりぎりに生きていた民衆にとって、千年王国の平和を希求したことは、理解が行くのである。それ故、ルターの宗教改革はミュンツァーの改革の徹底した運動に及ばなかったのであるが、ルターの改革がいわば体制内改革であったことで、徹底して弾圧されることなく、生きのびたのであることが、わかる。そして、歴史で学んだルターが免罪符の売買を問題にして宗教改革を図ったというのも、事実は、すでに1世紀も前に、免罪符売買に抵抗した運動があることを知ると、カトリックが意味を持っていたのは、知識人、金持ち、貴族などの上層の人々であり、民衆にとっては、原始キリスト教の自然状態こそキリスト教の本義だと感じていたのである。これを敷衍すれば、マルクスの共産主義、プルードンのアナキズムが、キリスト教社会の黙示録的ユートピア志向のイデア出と思えるのである。

魔女:加藤恵子