魔女の本領
カンパネッラの凄さが…

カンパネルラ

『評伝カンパネッラ』


後期ルネサンスといえば当然学魔高山師伝授のマニエリスムが絡むのだが、何も絡まなかった。オー・マイ・ゴッド。

『評伝カンパネッラ』澤井繁男著 を読む。

本書の売りはルネサンス最後の巨人、本邦初の評伝ということであったのだが、どこまで読んでも、カンパネッラの凄さが出てこない。その上私たちが良く知っているユートピア論『太陽の都』についての中身が全然書かれていない。いわんや、ルネサンスを語るのに絶対落とせない魔術、占星術についての記載が弱いと言うのか、殆ど意味を持たせて記されていない。カンパネッラなんかこんなもんだとしか書かれないとしたら、凄い残念だ。
僅か20歳差のジョルダーノ・ブルーノについてのかの有名なフランセス・イエイツが書いた『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』を読んでいれば、カンパネッラがブルーノと同じ牢獄にいたという事案をもってしても、直接の関連はなくても、「魔術師(マグス)」とは何か、自然魔術はどんなものか、占星術の本質とは何か、そして、イエイツがその本で、カンパネッラの政治的意味と『太陽の都市』についての内容の本質まで書かれているのであるが、参考文献にも載っていないと言う点で、おいおい・・・と言う感じなのだ。つまり評伝として人生を追う著作が、ただの修道士の苦難の生涯であったのではどうもならんでしょう。『太陽の都市』として何故ユートピアを描く必然があったのか、イエイツに学べば、その時代における大陸を跨いだ政治的な動乱と和平への強い精神史が浮かび上がらない筈がないのだ。

勿論、カンパネッラの波乱万丈の人生の中軸は1599年のイタリアでの政治的蜂起で、これは反スペイン、反教会という立場からのものであり、注目されるものである。それによって、異端審問に付されることにもなるのであるが、この蜂起のいい加減さが著者の史料的裏ずけの甘さなのか、カンパネッラ自身の政治的素質のなさなのかよく分からない。また異端審問への反論が狂人を装って、逃げおおせるのも何か不十分のような気がする。それ以上に、反スペイン、反教会の意図は本当なのかが良く分からない。常に自己保存のために教会におもねる内容の『教会統治論』を書き、『イタリア君主論』では、イタリア人はヨーロッパやイタリアでのスペイン権力に反抗するのではなく、むしろパプスブルク家の支配を得てスペインと連合することを説いている。この本心は何かについて手がかりは残されている、オスマン・トルコの問題である。彼が恐れていたのは、イタリアの統一がなされないと、オスマン・トルコに対峙できないという恐れではなかったのかと言う点なのであるが、この分析がなされていない。

『太陽の都市』についてであるが、筆者は「14世紀後半から15世紀前半にかけての初期人文主義の時代より、政治闘争をしながら同時に理想国家の建設に想いを託すことは、ルネサンス文化のひとつの特徴であった。カンパネルラもこのルネサンス精神を充分に受け継いできたと思われる。

「太陽の都市」の支配構造は、形而上学に該当する「太陽」を頂点に、その下に「権力」、「知識」、「愛」の三者が並立する。そして、それぞれが各学芸を束ねている。そして「全体の生命」というモチーフの下で各章の叙述がなされている。一種、生命主義的な小著である。

カンパネッラの決起は、カラブリア内の搾取者たる聖俗両界の打倒をめざしており、きわめて現実的な理由に基づいていたように一見されるが、彼の内部では、占星術の預言者によるイメージが強く作用していた。至福千年などの影響もあったであろうが、私は拷問などによる、彼の死に対する恐怖が『太陽の都市』を書かせたと思う。つまり彼の生への希求(生へのベクトル)が執筆の内的モチーフになったと考えられる。拷問を受苦したカンパネッラはつねに死と向き合っていた。『スペイン帝政論』が実用的な内容なのに反して、『太陽の都市』はアレゴリカルに生への深い執念を著わしている。

カンパネッラにあっては、生命の再生が政治的刷新や宗教的刷新と結びつけられていて、世界の救済は軍事力の平衡からではなく、精神の再生から生み出されることとなろうか。『太陽の都市』は、その精神の再生を日常生活などの在り様を書くことによって、灯台の人々に示そうとした作品であった」。これではひどく個人的な要求によるユートピアでかない。なんかわびしい。この点イエイツは明快である。「カンパネッラとブルーノの間には、比較参照に値する点がある・・・記憶術の歴史に関わるものである・・・ブルーノの魔術の基軸形態が、ヘルメス教で説かれた内面への世界の反照という教理を、古典的な記憶技法と統合させたものであることを確認してきた・・・カンパネッラも、この試みは一つの伝統を形成してきたことは知悉している。その実際に「太陽の都市」も、「場所の記憶」として内面に反映させることが可能なのである。したがって記憶の体系という側面から、この理想都市をブルーノの記憶体系と比較対照して行く必要がある。『スペインの王制』では、まず星座全体の天文図を作製し、その天上界にオーストリア・ハプスブルク家の諸侯を散りばめる。カンパネッラは、そのように作製された天文図を、「場所の記憶」として用いることができると、推賞している」。全然読みの深さが違う。そして、最終章に置いて本書は「ルイ13世の後継者が生まれたとき、カンパネッラは王子のホロコーストの作製と、しじんとして牧歌の詩作を依頼された。王子(後のルイ14世)はイルカ座の下に誕生し、将来を約束された幸運な星の影響下にあった」と書いたのであるが、イエイツはこう書いている「カンパネッラは、宮廷に置いて、誕生した世継ぎルイ14世はエジプト風の「太陽の都市」を建設することになるだろう、と予言している真っ最中だったのである」。著者の本書の単調さに較べる時、イエイツの凄みを改めて感じざるを得なかった。

本書を読んだ結果、改めてイエイツを読んだ方が全然面白いと言う事を伝える結果になった。最後に言わせてね。私、フランセス・イエイツを一冊(どうしても入手できなかった)を除いて全巻読破したんですよ。イエイツに乾杯。イエーーイ、イエイツ。

魔女:加藤恵子