魔女の本領
ホームズって記号論者なのね…

ホームズの記号論

『シャーロック・ホームズの記号論』T・A・シービオク J・ユミカー=シービオク


記号論の実践編として名高い本である。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズの犯人探しのプロセスとプラグマティズムの哲学者として著名なパースの思考方法を小さなエピソードから導き出した手順が同じだという視点から比較検討したものである。

記号論に詳しくないので、少々乱暴な紹介になるが、「当て推量」の果たす推理力である。パースもドイルも推論を進めるのに基となるのはこの「当て推量」だという。ただし、私たちが漠然と物事の判断にしているそれとは決定的に異なる。即ち、細部を徹底的に追求し、他の可能性のない所で推論を働かせることで、確実な推論に至るのだと言うことである。

パースの考えるところでは、私たちが世界について働かすヤマ勘は知覚判断に左右されるものであり、その判断の中に普遍的な命題すらも引き出せるような要素が含まれているということになる。パースは仮説を抱くとは「「洞察をもつ行為」であり、「推測による暗示」は「稲妻のように」頭にひらめきのである」として、また推測のことを「根源的な議論」とも呼んでいて、「推測とは世界の諸相の間に、無意識のうちに、つながりを知覚することなのであり、別の表現を使うならば、メッセージの無意識的なコミュニケーションに基礎をおく本能的な行為なのである。それは或る種の情動とも関係する、と言うよりも、情動を生み出すのであって、この点でも帰納や演繹とは異なるのである」として、この推論によって判断は正確さを獲得するとしている。

このような認識を持ったパースの論理は実は当時の思想状況の反映であり、すなわち科学への接近から来ている。この点が、シャーロック・ホームズの探偵手段につながるというわけである。ホームズの見せる意識の集中力は、化学への傾倒によるところが大きい。それはコナン・ドイルが医学の教育を受けた点に見られる。ホームズは微細な外特的特徴
から核心を探るのであるが、「当て推量」から引き出される結論の根底にあるのはこの科学的見地であるという。

シービオクはコナン・ドイルが演繹の学と呼んだものは、パースが推論の術と呼んだものと同一であると結論付けた。この両者が共通項をもつ下地は両者がエドガー・アラン・ポーの愛読者であり、両者が医者の素養を身につけて居た点にあるとした。

この本が出た1980年代以降記号学は細分化され展開されていて、生物学や人類学、言語学との連関が進んでいて、本書の意味は今更大きいとは言えないが、ホームズもボンドも(こちらはウンベルト・エーコがやっているらしい)も魔術的な推論とみえる基礎にある科学的思考を知らしめると言う点で、刺戟的な楽しい本である。巻末に先日亡くなられた山口昌男先生とシービオクの対談が記号論の意味を簡略に説明してくれていて、改めて山口先生の多彩な才能を思ったものである。

魔女:加藤恵子