魔女の本領
マルクスってどうなのよ?もしかして周回遅れのトップランナー…

世界精神マルクス

 

『世界精神マルクス 1818-1883』


選挙があったり(どうしても福島の人びとを侮辱した人物の当選を阻止するために闘いに参戦)、日本の右傾化が進む現状にいたたまれず、連日街頭に出て行く日々に本読む時間を確保するのが極めて困難である時に、あえて、こんな本を読んでみた。『世界精神マルクス 1818-1883』ジャック・アタリ著 的場昭弘訳 579ページある。重い。表紙のマルクスの写真が髭モジャでうっとおしい。腰巻の宣伝文が「マルクスの実像を描きえた、唯一の伝記」。大げさだ。というわけで、断固マルクス何する者ぞとたすき掛けで読んでみた。それほどでもなかった。もちろん、私の年代であれば大学の一般教養の経済学だってマルクス経済学だし、専門課程の歴史学だって、マルクスの発展段階理論のマルクス歴史学だから、全然知らないというわけではないのだが、実はよくわからん。というのが本当のところである。その点で、この本は実はマルクスの全体像を知るには格好の本となっている。

マルクスの伝記的要素はかなり興味深かった。ユダヤ人としての出自との葛藤は、父親がすでに祖先のユダヤ教のラビの血筋から離れるために弁護士として活動していて、マルクスは自らの意思やユダヤ人社会からの視線をほぼ感じることなくユダヤ人的なるものから脱することが出来た。しかし、それでもなおユダヤ人問題がヨーロッパの精神風土に根深い問題を考えざるを得なかったということがかれの哲学の基本にあるのだ。その事が今に至るもなお続く政治的、文化的そして差別の構造をも引きずるという歴史を考えさせられる。マルクスは10代で領主の貴族の娘と恋人となり、結婚を実現する。彼らは生涯を通じて同志的結合で生きることになるのであるが、どう見ても偉いのはマルクス夫人イェニーの方である。彼女は両親、親族の反対を押し切ってユダヤ人の当時は学生の年下のマルクスと結婚する(マルクス23歳、イェニー27歳)。マルクスは大学を出る頃には学者になることを目指していたようであるが、社会における哲学の役割を志向すれば当然のことながら社会に近接して行く。政治に関心は向きジャーナリストとして進み始め『ライン新聞』の編集者となる。当時のマルクスの家計をさせたのはイェニーの親からの支援であるが、その後生涯を通じて、マルクスの金銭的な困窮は彼が政治的に活動すればするだけひどくなり、イェニーと親族の遺産をめぐるトラブルやマルクス自身も母の相続金を受け取れない苦悩などが続いていた。この間、マルクスには6人の子供が生まれたが3人は幼児の時に死亡している。ここで私も、どこかで読んだことがあったのだが、イェニーには両親が女中をつけて来ていたのであるが、マルクスはこの女中ヘレーネ・デムートにも子供を産ませているのである。この事実はすべて秘密にされ、生まれた男児はエンゲルスが引き取り孤児院に送られ育てられた。のちにエンゲルスが死ぬ間際にこの事実を明かしたという。この男児は後にイギリスで労働者として社会主義運動の場に出て来るのだが、マルクスの娘は、異母兄弟であることを知らないまま知り合ったらしい。ひどいなーマルクス。さて、マルクスの極貧生活を支えたと言う点ではエンゲルスの支えが有名である。この点は事実であるようだ。必要に応じて常に金銭を差し出した。そのためにエンゲルスは表向き政治的活動の場から身を引き父親の持つ会社の経営を続けた。この工場における労働者の実態がマルクスの労働と賃金、剰余価値等のマルクス経済学の基本概念をエンゲルスから聞き取ったと言う点でも重要であった。この点に関して著者のアタリがとても感動的に書いている。

友人の貧困とギドー(マルクスの子供)の死に驚いたエンゲルスは、大きな支援を約束する。ロンドンでの生活を諦め、マンチェスターの家族の企業で働くのだ。フリードリヒがロンドンでの生活は非常に困難で、革命は非常に遠いと考えたことは疑いない。しかし当然のことながら、彼はマルクスに知性の点でかなわないと考え、はっきりと自分のやれるべきことをやろうと決心したともいえる。かれはもう少し金を稼ぎ、賃金と生活費の一部でカールを助けようとする。この決定はそれぞれの生活に決定的な影響を与える。ロンドンを去り、彼がきらっていた経営の仕事につくことで、エンゲルスは、最高の人物だと思う人間を支援するために文筆の道を断念する。「資本主義という城のトロイの木馬」となることで、カールの理論的仕事のために多くの情報を提供し、カールと議論するためにしばしばロンドンに戻る。二人の男は20年にわたってほぼ毎日手紙をやり取りする。思想史の中でこのような献身的な例はほかにはない。フリードリヒはたとえどんな犠牲を強いられても、その見返りを求めることはない」。

このようなエンゲルスの経済的援助の下で、マルクスは大英図書館にこもりそこで貨幣、賃金、資本、投資、労働者の生活状況を研究する。かれはますます経済学に没頭し、政治に興味を失ってゆく。マルクスは膨大なノートを書き留めた。定期的には週刊ニューヨークに論文を送ったり、ドイツの雑誌に論文を送ったりした。その原稿はすさまじい悪筆で誰も読むことが出来ず、妻であるイェニーが書き写し、内容も吟味したということである。貴族の娘であり(異腹の兄はベルリンで反動的内閣の内務大臣であった)教養があったとはいえ、マルクスの論文を読み解いた最初の人物が妻であったと言う事は何とも云えない感動を覚える。

そのマルクスの資本論にしても、マルクスは完成させることがなく、常に書き加え、書き直していた。そのために発刊されたものも、完成稿と言うわけではなく、また時には無署名のアジびらであったりしたものが、後に社会的に流布したなったものも多かった。つまり、文筆で食べられた訳ではないのである。後に述べるが、マルクスの書籍はむしろ後の時代の人が勝手に編纂したと言う点で問題を生じさせたといえる。

マルクス理論において最も注目される点は、昔から問題として指摘されていたことであるが、資本主義生産様式を経なければ共産主義社会への移行はなしえないというマルクスの基本的考えが、ロシアにおける状況で変更されたのかどうかという点である。いわゆる『ヴェラ・ザスーリッチへの手紙』である。アタリは「この頃ロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに書かれた、驚くほど推敲された重要な手紙(3つの手紙の下書きが保存されている)の中で、マルクスはしばしば考えてきたことを紙の上に書く。ロシアでは、そしてロシアでのみ、資本主義による迂回はおそらく必要ではない。資本主義は、いつもまったくロシアの方向と逆を進んできたからである。「ロシアは共同所有が、国民的規模で維持されている唯一の国である。しかし、同じようにロシアは近代史の中に巻き込まれている。ロシアはすぐれた文化をもつ同時代の国であり、資本主義生産が支配的な世界市場につながっているーーー。(結果として)私の西欧における資本主義の生成史を、置かれた歴史的環境がどんなものであろうと、社会労働の生産力のより大きな投入によって人間の全体的な発展が最終的には保証されるといった、宿命的にすべての人民に運命づけられるような、一般的市場の哲学史的理論に変容することは」できない。資本主義の後ではなく、資本主義に取って代わって「たった一つの国で」共産主義を打ち立てたいと望むすべてのものがしがみつくのは、この手紙である(いやこの手紙しかに)。2年後マルクスはこうした理解を崩す意見を述べる。革命派それが直接世界的なものにならなければ、ロシアにおいて成功することはないだろう」と書く。

すなわち、マルクスは一度はロシアにおいては資本主義を経ないで共産主義が成り立つ基盤がある。それは土地の共有があるからで、それはロシアにおけるむしろ遅れた生産様式であったわけなのだが、共産主義における私有財産の否定と土地共有の概念がそこに夢見られたのであるが、最終的にはマルクスはその考えが誤りであると考えていた。特に世界的に開かれたものでない限りロシア一国で成功するものではないとしていた。したがってここに、彼のすべての作品と前年の手紙の間の矛盾を引き起こす問題がある。ロシア革命は、もし、ロシアが西欧のプロレタリア革命の前兆でないかぎり、すなわち革命が世界的なものでないかぎり、「共産主義的発展の出発点として機能」しえないだろう。非常に重要なこの言葉の要素は、一世紀の間レーニンとその継承者によって隠されることになる。彼らは後に見るように、唯一ロシアのみが社会主義へ直接的移行するという考えに、マルクスは白紙委任をしたと思わせるためにあらゆることを行なう。

ここからマルクス理論の歪曲とそれによる没落が始まる。マルクスはロシア革命の勃発を見ることなく亡くなる。葬式は僅かに11人の参列者であった。エンゲルスの弔辞が遺されている。マルクス主義についてこう述べた。

「3月14日午後2時45分、現存する最も偉大な思想家は思考するのをやめました。彼はたった2分一人でいましたが、私たちがかけつけたときは、彼は椅子の中で最後の眠りについていました。この人物の死以上に、歴史学にとって、ヨーロッパやアメリカのプロレタリアの戦士にとって計り知れない損失はありません。この力強い精神が消えたことによる大きな穴はやがて理解されるでしょう。ダーウィンが自然科学の法則を発見したのと同じように、マルクスは人間発展の法則を発見しましたーーー。さらにマルクスは資本主義生産と資本主義生産が創りだしたブルジョワ社会の現実の運動様式を規制する法則も発見しましたーーー。この二つを発見したことは一つの人生にとって十分すぎるものでした。ひとつのことをなしうる人間は幸いなるかな。しかしマルクスは、彼をひきつけ、彼が学んだあらゆる分野において(そこには特別な分野はなく、数学も含めてすべての分野を含みます)、発見したのです。こうした学者はいました。しかし彼の半分にさえ到達していません。学問とはダイナミックな歴史であり、革命的な力でした。非常に予見しがたい結論にいたる理論的法則を発見する喜び以上に、彼はまた産業における革命的変革の当事者でしたーーー。なぜなら彼はまず第一に、革命家だったからです。かれの人生における使命は、近代のプロレタリアを解放するために、何らかの方法で資本主義社会とそれがつくりだした国家を倒すことに貢献することでした。舞う楠はプロレタリアの解放条件を定義した最初の人物でした。闘うことこそ彼の考えでした。そして彼は情熱、粘り強さ、比類なき成功をもって闘ったのですーーー。マルクスはその時代もっとも憎まれ、中傷された人物でした。絶対主義政府あるいは共和主義者は彼を追放しました。ブルジョワ、保守派、民主主義者すべてが彼と闘うために団結しました。彼はこうしたことには、とりわけ必要なとき以外は関わりませんでした。そして彼は、シベリアからカリフォルニア、ヨーロッパやアメリカの数百万の革命家の同志から尊敬され、敬われ、涙を流されて死んだのです。たとえ彼が多くの敵をもっていたとしても、個人的な意味で敵はありませんでした。彼の名前は、その作品同様の中で生き延びることでしょう」

さて、問題はマルクスの死後である、彼の書いたものは初め末の娘エレナーが所有していた。しかし、一部はベルンシュタインが隠し持っていたりした。エレナーはマルクスが死んだ息子の身代わりのようにかわいがった娘であったが、彼女の恋人、リサ・ガレー(後にフランスでパリコミューンの有名な本を書く)との結婚に反対したことから、彼女は精神に異常をきたしていて、後15年に渡る同棲相手が別の女性と秘密裏に結婚したことを知り自殺している。そのために、マルクスの遺稿はバラバラになっていた。そして、マルクスを最も歪曲したのは実はエンゲルスであり、さらにはレーニン、スターリンと続くのである。彼らはその時々の状況に合わせてマルクス理論を都合に合わせて解釈した。エンゲルスは前衛党の概念を発明した。マルクスの経済理論を戯画化するカウツキー、マルクス主義を遅れた国の西欧化の戦略としてロシアに輸入したレーニン、プロレタリア独裁を、ブルジョワ階級喪失後プロレタリアにむけられる独裁にするスターリン。

このように変質してしまったマルクス主義をいま我々は必要としているのかである。社会階級を定義することはもはや可能ではない。ブルジョワジーとプロレタリアは、まったく対立する二つの社会グループではなくなった。賃労働者自身はますます微妙なグループに分かれている。貨幣と並んで、知が決定的な資本となっている。剰余価値の尺度は不明瞭となっている。だからこそアタリは「マルクスの理論派、今日のグローバル化の中で、すでに彼が予測したことだがおおきな意味を見つけている。資本主義の爆発、伝統的な社会の転覆、個人主義の上昇、資本の集中、移動、商品化、不安の増大、商品の物神化、たった一つの産業での富の創造、不安リスクから身をまもる金融業の拡大などを目撃している。これらすべては、マルクスがすでに予見したことだ。労働の費用は、すでに示されたように、経済の生産性の上昇よりも遅くしか上昇しない。研究や社会支出の増大する部分の一部を担い続けているのは国家である」と書いている。

カール・マルクスを再読する必要がある。そこに、過去の世紀の間違いを再度侵さず、間違った確信に進まないための原因を汲みとらなければならない。権力はすべて可逆的であること、理論はすべて異論によってつくられること、真実はすべて乗り越えられるものであること、専制は死を招き、絶対的善は絶対的悪の源泉であることを認めなければならない。反対意見を認め、原因と責任、メカニズムと行為者、階級と人間を混同してはならない。そして、人間をすべての中心に置くこと。マルクスのメッセージは現在この世界に生きるすべての人間に向けられたメッセージである。この混乱し、殺戮が横行する世界に、インターナショナルな精神と人間への期待が込められている。

最後に何故か判らなかった疑問であるが、マルクスの名前がカールだったり、マルクスであったり、エンゲルスもフリードリッヒであったりするのが煩わしかった。意味ある書きわけだったのだろうか。翻訳としてこなれていて読みやすいので、読んで見られることをお勧めします。

魔女:加藤恵子