魔女の本領
国家による情報収集のすさまじさ…

暴露

『暴露 スノーデンが私に託したファイル』


国家による情報収集のすさまじさと、それを止めることのできないジャーナリズムが民主主義を危険にさらす。アメリカの先例は今や日本の問題だ。

注目の本『暴露 スノーデンが私に託したファイル』グレン・グリーンウォルド著 田口俊樹他訳 を読む。

大騒ぎになったのに、発行後書評に取り上げられることもなく、ジャーナリストの誰かが触れることもないのをいぶかしんで読んでみた。本書は内容が3部に分けられる。アメリカの最高機密文書を暴露したスノーデンと筆者がいかに接触し、秘密のファイルを入手し、「ガーディアン」誌に掲載させるに至るかの緊迫したやり取りが書かれている。スパイ小説もビックリである。筆者はガーディアン誌の記者ではなく、独立したジャーナリストで9・11以降、国家安全保障局(NSA)の盗聴スキャンダルを暴き、ブログで発信していた人物である。彼は特にテクノロジーに長けていたわけではなく、その水準は普通のレベルである。スノーデンはグリーンウォルドに機密情報を託したのはむしろ、独立したジャーナリストであったからであったということは後によく分かるのである。スノーデンは匿名で彼の方からグリーンウォルトに接触してきたが、機密書類の所在を匂わせ、接触するためにはすべての接触を暗号化した連絡方法を取るように、PCにどんな暗号化ソフトをインストールすべきかまで指示している。素人には全く信じがたいことであるが、インターネットはすべて筒抜けなのだそうだ。このようなネットの状況下では結局信頼できる人対人が直接対面してやりとりすることでしか強力な権力に対抗できないところに、ネット社会の矛盾が露呈している。スノーデンと直接接触が可能になっても、ホテルではドアの下に物をつめて音を遮断し、携帯電話は追跡を逃れるために冷蔵庫に入れて話し合われた。データは膨大であったが、ネットを経由してのやり取りは必ず発覚するということで、未使用のPC4台に分けて暗号化したうえで持ち出している。全く持って、信じられないことだ。

スノーデンが持ち出した秘密文書は多種多様であったが、スノーデンが高級技術者であり、綺麗に整理されていたようだ。それはとにもかくにもアメリカの国家安全保障局がテロ対策と称してアメリカ国内はもちろんのこと同盟国その他世界的規模での通信を秘密裏に集め、集積していたと云う事の証拠なのである。この部分は、どの文書が何を指示していたのか、スノーデンが暴いた文書では素人にはよく分からない。解ることは何兆にも及ぶ文書を集めていたということで、それはターゲットを絞った盗聴とは次元を超えているということである。なぜこのようなことが国家安全の名のもとになされたかであるが、いわば被支配者の心理に及ぼす抑圧の原理からである。「NSAの能力をもってしても、すべてのEメールを読み、すべての通話を聞き、全員の行動を追跡することはできない。監視システムが効果的に人の行動を統制できるのは、自分の言動が監視されているかもしれないという認識を人々に植え付けるからだ」。この原則は、18世紀にイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが生み出したパノプティコンの概念の核心となるものだ。パノプティコンとは、施設における被収容者の行動の効果的管理を可能にする設計思想のことで、「この建物の構造は、いかなる施設にも応用可能で、いかなる種類の人間でも監視下に置くことができる」というのがベンサムの主張だった。この思想を有名にしたのはフーコーの『監獄の誕生』であるが、この管理モデルには 服従を強制するのはその人自身の心で、見られているという恐怖から、人は自ら従うことを選択する。そこまで来れば、もはや外部からの強制は不要となり、自由だと勘違いしているひとたちをただ管理すればいいだけになる。

そんな理由から、圧政的な国家は大量監視活動こそが最も重要な支配ツールのひとつだと考えるようになるのであるが、このシステムの電子版なのである。なぜ今そうなのかは、近年はもともと経済格差が各国で広がり、その流れが2008年の金融破綻によって本格的な危機へと発展し、いくつかの国の国内情勢が著しく不安定になった。特にアメリカが9・11以後自らのまいた種によって、テロの対象になり、その対策が政治的な外交による平和への道を歩むにはスピードがおそいという精神的な恐れから、先進手段のユビキタス管理に走ったということである。しかしアメリカ政府が実はこれだけの人権侵害、プライバシー侵害を重ねながらアメリカはテロを未然に防げてはいないのである。むしろこの情報は経済とか外交とかに利用されていて、外国を出し抜く手段となっているといえる。ドイツのメルケル首相のメールが盗聴されていて、直ちにオバマを批判したが、日本の政権も盗聴対象になっていたことが暴露されていても、なんの抗議もしない日本とはアメリカの従属に甘んじているとしか思えない。

さて、スノーデンとは何者で、何故このような秘密文書暴露に至ったかは、とても興味深い。彼は高学歴ではないが、インターネットの技術者として経験を積み、CIAやNSAで高度な秘密に触れる地位にまで至っていたが、若干29歳の平凡な若者で、政治的な背景は全くない。彼は筆者が何故自らの経歴を投げ捨て、最悪の場合は刑務所行きの可能性もある行為を決断したのかを尋ねたのに対して、非常にシンプルであるが、人間として最も誠実な答えをしている。「人間のほんとうの価値は、その人が行ったことや信じるものによって測られるべきではありません。ほんとうの尺度になるのは行動です。自らの信念を守るために何をするか。もし自分の信念のために行動しないなら、その信念はおそらく本物ではありません」と。そして、その自己犠牲的な信念の来た原点を尋ねたのに対して、「いろいろな場所で、いろいろな経験をしたからでしょう」と彼は言った。スノーデンはギリシア神話に関する本を数多く読んで育ち、中でもジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』に影響を受けていた。「そうした物語には私たちみんなが共有できるテーマがあります」。彼がこの本から学んだ一番の教訓は、「私たち自身が自らの行動を通して人生に意味を与え、物語を紡いでいく」ということだった。意外なことにというか、現代的であるというか、スノーデンの世代の人間は、文学やテレビ、映画と同じように、ゲームを通じて政治意識やモラルを養い、この世界における自らの居場所を見出している。彼等はゲームの中で複雑な道徳上のジレンマに直面し、物事を深く考えるようになったというのである。そして「多くの若者にとって、インターネットは自己実現の場です。彼等はそこで自分が何者なのかを探り、何者になりたいのかを探り、何者になりたいのかを知ろうとする。しかし、それが可能になるのは、プライバシーと匿名性が確保される場合だけです」。私たち、古い世代にはゲームの世界から在るべき人としての善を獲得して行くということに些か驚きの感覚を抱いた。

このように実に純粋に行動したスノーデンに対して既成社会、特にジャーナリズムの世界のひどさはアメリカに置いても日本以上かもしれない。大手メデイアは事前に記事の内容を政府に知らせていて、問題とされたものは記事にならないという。またスノーデンも記事として書いた筆者も、機密文書を暴露した後、大手メディアの中傷に晒されることになる。筆者はジャーナリストではなく活動家であるというレッテルを張られ、テレビ報道で非難に晒される。そこから筆者は在るべきジャーナリズムについての考察を書いている。私たち日本に置いても、実は今最も問題になっている点だと思う。即ちアメリカに置いても政治メディアは、国家権力の濫用を監視し・抑制することを本来の役割とする重要な機関のひとつであり、報道機関は政府の透明性を確保し、職権乱用を抑制する機能を持つべきである。そうしたことへのチェック機能は、ジャーナリズムが政治権力を持つ者に対して「体制の不正を監視する」強い姿勢を貫いた場合のみ効力を発揮する。にもかかわらず、アメリカのメディアはその大半がかかる役割を放棄してきた。ただの操り人形となって政府のメッセージを垂れ流し、汚れ仕事の方棒を担いできた。そして、ジャーナリズムに客観性というものはないと言い切る。「これは見え透いた方便であり、この業界の身勝手な見解でもある。人間の知覚や意見というのはそもそも主観的なものだ。ニュース記事はどんなものも大いに主観的ものだ。文化的にも国家的にも政治的にも。そのため、ジャーナリズムはどのような形であれ、どうしてもなんらかの勢力に与することになる。

これは自分の意見を持つジャーナリストと持たないジャーナリストがいるという話ではない。意見を持たないジャーナリストなど存在しない。自分の意見を率直に表明するジャーナリストと、自分の本心を隠し、まるで意見を持たないかのように振る舞うジャーナリストがいるだけのことだ」。すなわち、客観的報道などというルールは本質的にまちがっている。

ひるがえって、日本の報道がいかに政府寄りであるか、政府を批判し、国民の権利を擁護する真のメディアの役割から遠く隔たってきている昨今の状況を打破するかは、独立したジャーナリストの存在が不可欠であるが、その素地は日本に残っているのだろうか。心もとないのが実情である。29歳の若者が率直に行動する、それを全力でサポートする、その記事を会社の上層部の危い動きに敢然と立ち向かいスクープする勇気ある記者の存在がかろうじてアメリカには存在した。日本もそうあってほしい。民主主義の崖っぷちに本を救うのは情報の透明性であること、それこそが民主主義の根本であることに私たちは心を合わせて立ち向かおう。

魔女:加藤恵子