魔女の本領
嬌声もシュプレヒコールも同時代だった…

タイガース

『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』磯前順一


タイガースの追いかけをやっていたわけではないが、この本を取り上げたのは実は筆者の磯前順一と同じ職場で働いたことがあったからで、その時彼は宗教学者であった。その彼が国際日本文化センンターに移り、なんとこんな本を書いたことにビックリしたのである。彼の誠実な人柄そのものに、丁寧に史料をあたった労作である。内容はかなり重複する部分はあるが、タイガースが関西で活動を始めたころ、東京への進出、そして当時の東京の文化状況に各人各様に染まり、そこから音楽への姿勢が次第にグループとしてやってゆくことの困難さを生じさせ、解散に至る。そして40年を経て再結成した彼らの思いを汲みとろうという筆者の姿勢が実に優しいのである。

エピソードの積み重ねではなく、メンバーの精神的な成長する姿が描かれている。タイガースメンバーの個性が初期には平等に横並び出であったものが、芸能界(渡辺プロダクション)の思惑で、個性が分断化され、対立へと向かうその姿は、とても痛ましい。特に、脱退した加橋かつみが純粋に音楽を追求しようとしてプロダクションと対立して行った姿は、若者のどう生きるかという姿勢を流されずに求めたと言う点で、69年、70年の政治の季節を闘った若者にも共通の意識性だと思える。これにたいして、ジュリー(沢田研二)は実は一日に3語しか話さないこともあるほどの地味な個性のであったということに驚くが、彼は舞台で見せるのは職業としての芸であることをいわば諦念として受け入れて、それ故舞台で華やかに生きることができた。これはまた、若者には珍しい冷静な意識性である。

東京の活動に入った時、彼らのバックに動いた多彩な人脈についての記載も興味深い。キャンティというカフェ・レストランが文化人のたまり場であったことは初めて知った。当時の文化サロンであったようだ。主人は川添浩史・梶子夫妻で、客には高松宮、詩人のジャン・コクトー、デザイナーのイヴ・サンローラン、ピエール・カルダン、画家のサルバドール・ダリやイヴ・モンタンも立ち寄ったということで、そのような文化サロンが当時存在したということに驚いた。ここに入り浸っていわば芸術と言うものを肌身に感じ、自己表現を求めたのが加橋であり、彼の退団の意味がそこにあったことが初めて分かった。彼は芸術家肌の人物だったのだ。

タイガース時代の彼らの音楽性など考えたこともなかったが、僅かな期間に、彼らは与えられる楽曲に満足できず、みずからの進むべき音楽のコンセプトを考えるような深みに達していたということも驚きである。しかしそれは、必ずしもメンバーが一致した方向性ではなく、瞳みのるの早期解散を強く主張し、いわば瞳の初期の結成時の仲間意識に戻れないことの苛立ちによる内部解体が解散と言う形になったようだ。実際瞳はその後、沢田の再三の呼びかけに応じることなく、自分の考える道を進んだ。慶応大学に入学し、慶応付属高校の国語の教員として務めあげた。私は、頑なな瞳の生きる姿勢に好感を持っていた。

時代背景も懐かしく、ヒッピー文化やサイケデリック芸術のまばゆい輝きを思いだすのである(実は一度だけ私もマリファナを吸ったことがある)。40年後、様々に生き再度集まったタイガースのメンバーは脱退や解散によって一度は千切れてしまった青春の宝のような友情が、再び結びあわされたのだろ。実に羨むべきことだ。自らに引きつけて考える時、青春の友情などなにひとつ持ち合わせておらず、なつかしむべき事柄もなく、刻んだ人生の年輪もないのっぺらぼうな自分の生に茫然とした。

結語にこうある。「ザ・タイガース、それは高度成長の時代に咲いた、美しくも鋭いとげをもった大輪の花であった」と。

魔女:加藤恵子