魔女の本領
彼は生涯「工作者」として生きた…

谷川雁

 

『谷川雁 永久工作者の言霊』


「東京へゆくな」と歌いながら、筑豊を捨てた谷川雁を私は裏切り者と思っていた。その雁の欠落した部分を知って、深く反省した。彼は生涯「工作者」として生きた。

著者は谷川雁を追って筑豊まで行き、深く感動して、雁が筑豊を去った後、彼が入社していたテック(=ラボ)に入社することになるのであるが、数年後には組合の幹部として雁と対立し、雁のテック辞任の引き金を作ったのだそうだが、さらに何年もの後、雁の死後「谷川雁研究会」を作り、雁の姿を再検証したその成果が、この著書である。

私にも些かの感慨を引き起こすのであるが、雁が筑豊を去り、残った森崎和江(私は妻だとばかり思っていたがはっきりしない。娘さんがいたが、雁の子供ではない。雁は結婚していた森崎を伴って筑豊の炭住に住み着いていたということだ)を私は訪ねて行ったのだ。1980年の冬だったと思う。筑豊の炭住は平屋の長屋で、そのこたつで話をした。当時森崎が「母の国との幻想婚」を出した後で、彼女が朝鮮で生まれ、その朝鮮への思いが書かれていたのであるが、私にはそれが良く理解できないと云う事を言いに行ったのである。森崎は「若い人には直ぐには分からなくていいのよ」と云うようなことを言われたと記憶している。その森崎を捨てた雁、そして東京へ出て、英語教材の会社なんか始めたらしいと云うだけで、こちらから棄ててしまっていた。

谷川雁の著作は「工作者宣言」とか「原点は存在する」とか鮮烈に覚えている。そしてかの有名な東大全共闘が残した「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンがある。著者はこれを旗印のように使われていた様に記しているが、実は明確に確認できるのは東大安田講堂の攻防戦が集結したのち、壁に書きつけられていたのが確認されると云うのが事実だと思う。全共闘の集会には何度も出たが、このスローガンが公に使われたのを聞いた覚えはない。しかしながら、このスローガンは雁の詩の一行であることは間違いないし、そのインパクトは強烈である。雁は三井三池炭鉱の大争議が敗北した後の筑豊で大正炭鉱の労働組合運動を指揮したのであるが、いわゆる組合の中に大正行動隊といういわば自主管理労組を作って、それまでの労組の組織論から突出した運動を展開した。その傍ら、「サークル村」という文芸誌を筑豊から北九州をカバーする文芸運動体として展開したのである。「サークル村」という命名にも見られるように。雁が「原点」と捉えていたのは、村共同体で、社会と世界を変えて行くエネルギーの震源地は村にあり「前プロレタリアート」に基盤を置くのだという雁の基本概念は、その後も、揺るがなかった。「下部へ、下部へ、根へ、根へ、そこに万有の母がある。存在の原点がある」と。この視点は「日本浪漫派」の戦後版と言えると評価したのは詩人の鮎川であるが、雁をこの視点から見直す批評は現れていないという。即ち、村共同体を遅れた封建遺制として捨て去る一般論調に対して、民衆の共同性、共同体感覚に一端立ち返り、そこから反転するエネルギーに点火し、組織することなしに日本の社会・文化・政治革命の可能性は生まれないというのが雁の革命論の基本であった。この点で、革命の根は戦前・戦後・敗戦後の連続性の中に透視することが不可欠と考えた。「僕の意識の底には故郷があり、意識の面には革命があり、それは乱れた像となってかさなった。故郷と革命、この二つのイメージを寸分のゆるぎもなく噛みあわせることが当面の仕事となった」(「農村と詩」)。

大正行動隊とサークル村の運動は雁の中では一連の物として考えられていた。大正行動隊も大正炭鉱廃山の中で、退職者同盟という形で、新たな展開が計られ、炭住を引き払う代わりに共同の住宅を獲得するという新たな取り組みに進んで行ったりして、そこに雁の見事が戦術が有効に働いてはいたが、炭鉱という場における血縁という問題に最終的に齟齬が生じた。私も記憶にあるが、大正行動隊員が仲間の妹を強姦して殺害し、その兄が自殺するという事件となり、組織は一応雁のいわば剛腕で守られたが、森崎との間にこの点でも意見の相違や行動隊を実質動かしていた人物との衝突で、雁は身を引いたように筑豊を去ることになった。ここまでは、私にも追いかけることが可能な点であった。

東京に出た雁がラボ(=テック)で子どものための語学教育という場で果たしためざましい活動を本当に知らなかった。しかし、どちらかと云えば、この活動のユニークさと創造性の豊かさには目を奪われた。外国語(当時は英語)を語学として教えるのではなく文化として教える。それも個として学ぶのではなく共同的創造性の中で自力で獲得して行くようにするシステムを考案した。「外国語を媒介にする精神活動」という位置づけである。雁はラボ・パーティーという異年齢の子どもたちとチューター、さらには保護者を交えた共同グループが作られ、英語・日本語を同時に語り、物語を演じるように身体化するシステムを創造した。またラボ活動の一環として、多くの講演会を開催し、哲学、社会学、心理学、文化人類学、文学のビックイベントが開催された。チョムスキー、ヤコブソンもラボが招聘した。その他、梅沢忠夫、中村元、吉本隆明、などの講演があり、また『ことばの宇宙』という研究誌には服部四郎、鈴木孝夫、井上和子らの言語学者をはじめ、宮本常一、鶴見俊輔、山口昌男、谷川俊太郎、谷川健一、森崎和江などが執筆している。見事な学際的な布陣である。雁は「ことばを教える」教育から脱皮してことばの本質へと進めていった。そこに屹立しているのが「物語」である。私たちの今では物語論はかなり明快に語れる時になっているが、雁は「ピーターパン」の再話や最も熱中した『国生み』(日本神話の再話)にジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』のそれと同様な物語の典型を再話として創作している。「物語には一つの構図あるいは構造のうえでの独自の性格がある」「物語というのは、日常から異界へ、異郷から日常へという、一つの境界線を越えて飛び越えて飛びこんでいく、あるいはまた向こうからやってくる、そういうことを大体軸にしている」(「たくさんの物語」)。

雁の子ども論もまたすぐれたものであった。「つまり幼児は、ラボ・パーティを主宰する童神(わらべかみ)であり、ラボの司祭です。たとえ幼児の姿がそこに見えない場合でもテーマ活動の根のまた根のところには、スクナヒコナノミコトそっくりのかしこくて小さい幼神が立っておられると感じることができなければ、それはただの下手くそな芝居もどきにすぎません」。著者によればつまり「幼児の本質は童神であり、神さまなのであるから、神として遇して共に歩むことがすべてのパーティーに求められているのであり、そうであればラボ・パーティの発展はまちがいなしと力説しているのである」。このように子ども、とりわけ幼児に神性を認めて、心底から敬愛しつつ共に歩み続けたからこそ雁はラボ時代、一皮も二皮もむけて「やわらかく」なり、人生の壮年期を豊麗に彩ることができたのである。ラボでの実践もまた詩にまでたかめることができたのである。ここでの童神が「原点」と通い合うものであることも指摘しておきたい」と。

この雁の最盛期は15年しか続かなかった。雁は森崎和江や上野英信が言うように「常にえばっていた」らしいのだが、経営者としては必ずしも有能ではなく、皮肉にも労働争議が頻発した。今度は組合の弾圧者として振る舞ったようだ。驚いたことに最初の組合の委員長は平岡正明だったのだそうだ。かれは首を切られ、雁を心底憎んでいたそうで、平岡の著作が好きだった私は、何だか不思議な気がする。雁は他の経営陣とも対立する所があり、結局優れた教材を作りながら辞めざるを得なかった。

しかし、雁は退社後、「ものがたり文化の会」を起こし、宮澤賢治に激しく傾斜していった。賢治を「源流の人」と位置づけた。賢治は「異端者であるという意味ではなく、まさに一個の源流であるということの証明です。『源流の人』です」(「ドーム感覚の造型へ」)。「宮澤賢治以前と宮澤賢治以後とでは、日本の文化はちがう。そういいたくなる衝動をぼくは持っています。賢治からはじまるものがある、とそういえるようにならなければならない」と書いた。そして「原点」とは何かを語ることの中に、私には今や木霊の様に響き合う物が出て来るのに驚いたのであるが、柳田国男の「山人」である。柄谷行人が『遊動論 柳田国男と山人』を出したのはつい先日だ。その先行形態が雁にはあるのに驚いたのだ。或いは中沢新一の縄文への志向もこれに当たるだろう。つまり雁の時代経済成長と物質的生活の向上、科学技術の発展のもとに地球生態系の破壊、大気汚染などの現代文明の負の側面に対して、「下山の時代」を明確に意識した雁に先達として見えていたのが柳田国男であった。

著者の松本は雁を中間に尋ねた時、雁の書棚には柳田国男と折口信夫の著書が集められていたのを見たのだそうだ。雁は突然柳田に帰ったのではないということではある。この著書もまた3・11以後何かに突き動かされるように書き始めた時、今や経済成長のために犠牲を強いる社会はやめよう。「山を静かに降りよう」というメッセージを雁の一生から学べるものを手に入れた一つの成果であるだろう。雁に謝りたい。あなたは裏切り者ではなかった。

魔女:加藤恵子