魔女の本領
明治維新は坂本竜馬より海舟だよ…

それからの海舟

 『それからの海舟』半藤一利


いつからかと言えば、やっぱり69年以後だと思うが、私は勝海舟のファンなのである。理由は唯一つ、負けた側だからである。明治維新後、零落した幕府御家人の一人が詠んだという歌、「落ちぶれて袖に涙に懸かる時 人の心の奥ぞしらるる」この歌に何度同じ感覚を持って生きて来たかしれないのである。

そして半藤さんも江戸生まれ(東京ではあるが)で、海舟ファン。その半藤さんが、明治維新以後の海舟(とわいえ、江戸城無血開城の西郷との懸命な工作は詳しく触れられているが)を「勝つあん」と呼んで、勝の苦笑いが見えるように書いた本である。維新以後の勝の動きはほとんど知らなかった。確か、伯爵だかになったんじゃなかったかなーくらいしか知らなかった。その勝は、明治の初め、政府から次々と官に着くように呼び出されている。しかし悉く断っている。その理由は、幕臣として仕えた最後の将軍慶喜の汚名返上がまずなされなくてはならないというまっとうな考えであった。慶喜と共に静岡へ引っ込んだ数年間は、海舟はまさに孤軍奮闘、幕臣を食べさせることだけに邁進した。誰誰に幾ら渡した、誰誰の困窮を救うために金を渡したと、詳細に残しているのだそうだ。そのうちに、幕臣の中でもこれではいかんという者が出て来て、静岡の荒れ地の開墾を始めて、そこに茶畑を作った。これが現在の静岡のお茶なのだそうだ。海舟はともかく、維新の立役者の名前だけで生き続けたわけではない。しかし、幕府をぶち壊した張本人という悪名は付いて回ったらしい。本人は覚悟を決めていたから、供も連れずに行動していたらしいが、或る時などは、馬に乗っていたところを撃たれて、玉は当たらなかったが、馬が棒立ちになり落馬し、気絶したのを、死んだと思われて、助かったことがあったとか。

非常に興味深いのは、海舟は征韓論が出て来た時も、朝鮮出兵に反対し、日清戦争も同様に反対していたということである。いずれも、その論理は明快で、清・朝鮮・日本は協同すべきであるという考えであったと共に、「戦争には金がかかる」「そんな金があったら鉄道をひけ」といっていたらしい。ふざけているようであるが、これも絶対に正しい。明治維新の時の無血江戸城開城も、実は国内が騒乱状態になれば、フランスとイギリスが必ず乗り出してくる。その先にあるのは植民地化だということを洞察していたからである。

この海舟にいちゃもんをつけたのが福沢諭吉で、両者は心底虫が好かなかったらしい。福沢は「痩我慢記」で、一戦も交えなかった海舟を酷評した。しかしどうもこれには裏があるようだ。福沢の慶応義塾ができてすぐに、西郷の西南戦争が起きて、塾生が激減して、運営に行きづまった。福沢は海舟のところに金策に行った(海舟と福沢は咸臨丸でアメリカへ行っている)。しかし、海舟は福沢が自宅として何万坪かの土地を持っていながら、金を借りに来たことにカチンときて、理想は立派だが、身ぎれいでないことをとがめたらしい。それが、福沢の怨念で勝を激しく攻撃した本を出したらしい。海舟は無視したが、何度も返事を求められこう応えた「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張。我に与からず我に関せずと存候」。つまり自分の行ったことに余計な弁解はしない、というまことにもって江戸っ子らしいタンカだった。

海舟が明治政府のおもだった仕事を引き受けたのは海軍を創設することであった。船にめっぽう弱かった(咸臨丸の船長でアメリカに渡った時、船酔いで殆ど何もできなかったらしい)が海の国としては海軍の必要性は重視していた。そこへ優秀な洋行帰りの元幕臣を多数登用した。それが後の日本海軍の見識の広い海軍になったようだ。

この本で、やはり心に引っかかったのは、最後の将軍慶喜である。江戸を去った時から、えんえんと40年以上、世に隠れて生きた人生とはどんなものであったであろうか。海舟とは慶喜は馬が合わなかったようであるが、海舟が裏から色々策を計って、明治天皇と慶喜が江戸城で会見したのを、海舟は実は最も喜んだらしい。

さて、その海舟、有名な話として、妻妾同居させていたのだ。うまく行ったとは思えない。奥さんの民さんは、同じ墓を拒否したらしいが、現在は近くに寄り添い、そのわきには西郷隆盛の碑も並んでいるという。

魔女:加藤恵子