魔女の本領
江戸時代、政治批判のパホーマンスが大受け…

狂講

 

『狂講 深井志道軒 トトントンとんだえどの講釈師』


江戸時代、政治批判のパホーマンスが大受けだったのだそうだ。平賀源内を唸らせた芸とはどんなものか知りたい。

というわけで、読んでみた。

『狂講 深井志道軒 トトントンとんだえどの講釈師』斎田作楽著

時は吉宗が死んだ直後、今から250年近く前の頃、江戸の浅草、浅草寺観音堂??のよしず張りの小屋で講釈師が江戸中の注目を集めていたのだそうだ。全然知らなかったが、その名は深井志道軒という。著者もこの名前を知ったのが、何と平成23年(2011)立川談志が亡くなった時、誰かが「現代の志道軒が死んだ」と評していたのをみて、誰だと思い調べ始めたのだそうで、専門家ではない。出版社の主人で江戸明治の漢詩文の研究雑誌を主宰しているアマチュアである。しかし、やはりパホーマンスの面白さを文章で伝えるのは無理がある。さらにこの書籍が研究書的に精密さが追求されているために、志道軒の人物についてはかなり分かるが、面白くもなんともないのは残念だ。立川談志を書物で読んでも面白くはないだろう。

志道軒は延宝8年(1680)生まれで明和2年(1765)に86歳で没している。彼の講釈は非常に高度な教養の裏付けがあり神道、仏教、儒教の知識があり、さらにその即興性は壬生狂言にあるのではないかと言われているが出自ははっきりしていない。後に書かれた者からの類推で、僧侶としての修業を積んだが女でしくじったのか「坊主落ち」して貧乏長屋暮らしを経て、60近くになって突然浅草に現れ、江戸中の人気を一身に浴びた。その人気はすさまじく、当時「天下に名高き者は、市川海老蔵と志道軒と唯二人より外なし」と言われるほどであった。彼以前の講釈は講釈一辺倒の「実講(じつこう)」と言われるものであったが、志道軒のそれは合間合間に、過激なフリートークを交える「狂講(きょうこう)」と呼ばれるものの元祖となる。そのフリートークの中味は、悪口と大口、すなわちシビアな社会批判と人前をはばからぬ猥談である。その面白さは平賀源内等の知友や、大田南畝や山東京伝といった著名人の書物に書かれ、虚実ないまぜになって現代に伝わったというわけである。

勿論イメージ画像も残されていて、その印象的なアイコンが手に持つ怪しげな棒状の物で、はっきり陽物とわかるのだが、これを机にトントントンと拍子をとりながら語ったのだ。江戸時代はかなり性には寛大であったとはいえ、寺の境内で陽物を振りまわして「軍記物」を語る。それも古い「軍記物」だけではなく徳川家康の軍記なども含まれているしその間に政治批判をするというのは結構な度胸がいる。さらには評判を聞きつけた大名家に呼ばれたり、上野の輪王寺宮に呼ばれた記録もあるそうだ。そこで政治批判をしたのか、それともエロ話をしたのかはわからない。しかし、この志道軒、講釈の最中坊主と女が大嫌いで、特に女性が来るととてもいたたまれない話をして退散させたようだ。私も居たかったなー。多分私は最後までがはがは笑って聞いたと思う。なぜこのような性的なやりたい放題が許されたのか。ひとつは場の問題がある。浅草寺という場は『江戸名所図会』には、「明日より夕べに至るまで、参詣の貴賎袖を連ねて場に満ちた」とされた「日域(日本)無双の霊区」で、彼の過激なトークとパホーマンスが祝祭的な場所柄と無関係とは言えない。

その愛されたフリートークは、悪口と大口の二種から成るといってよいが、どちらもかなり過激なものであった。悪口というのは、御政道や当世批判から、僧と女いじりまでを含めた辛口部分で、多く地は、滑稽話、ほら話、猥談といった甘口部分である。その政治批判は、世上を白眼視した彼の得意とする分野であっただろう。多くの談義本に書き移された彼と彼の分身たちが繰り広げる、流行や社会批判によくそれが表れている。
勿論それにはまた確かな話芸の裏打ちがあった。危険な辛口トークを、軍談と甘口なトークの合間に言いまぎらすのは、余人には真似のできない志道軒ならではの芸当であったといえよう。かてて加えて、扇子に代えて例の隠形棒を振り回してトントントトンとやらかすなどという破格の演出、身振り手振りを伴った人前はばからぬ公然猥談、人を食ったほら話であった。しかしそれは幕府の禁止とすれすれであり、それへの対処も実は怠りなかった。それはみずからを狂人と称し、長屋の大家もそのようにお上に届を提出し、危機を避けたのであるが、その特異な人格と風貌が、あまりに類を絶しているが故に、特別視、いや異物視されて、一種治外法権的な「許された存在」たり得たのではないか。「あの親爺だけは捨ておけ」と。その辺に関しては、彼のしたたかな計算があったようにも思える。お目こぼしなのか、彼の計算勝ちなのかは定かには分からない。
現実の見聞記もいくつかのこされている。

福山長寿『宝暦雑録』

「二、 宝暦九年江戸へ参りて、あなたこなたを見めぐり、色々の珍しき事をも見聞き侍りし中にも、金龍山浅草寺観音の地内に、志道軒といえる老年の坊主、古今の戦物語其の他、近代武勇知謀の英雄なる噺をするあり。70余歳(宝暦9年は志道軒80歳)にして、その形殊の外おかしきなりふり也。しかも豪気者と見えて、手には壱尺あまりの木にて作りたる陰茎(マラ)を持ち、将軍家の御祖先より其の外、大小名の家事まで委しく知りて、色々様々に悪口を言ひ、あほう話を交えて、おかしく面白く、出家と女と聞きに来るを見れば、当て付けてお悪口、例の陰茎を振りまわし、色々の手品(手振り)にて遠慮もなければ、又、公儀をも憚る事なく、旗本衆は若党、草履取りを連れて聞き居るもあり、夜は大名衆へも召されて参るといえり。」

「此の者の事は数年承り及びけれども、目に見るは今が初めにて、言うにも言われぬあほうなる体にて、話のおかしき事言うに計りなし。しかしそれを道理へ説き入れて、弁舌は水の流るるが如し。殊の外博学多識の者と見えて、和漢の事知らぬといふ事なし。誠に稀有のおどけ者也。江戸にては此の志道軒を人形に作り、絵に書いて、小児のもて遊びにする也。手跡も達者に書き手、自身に『志道軒伝』といへる文章一片を作り手、望み人あれば売ると也。其の文章殊の外おもしろく、字句風雅にしてよろしき也。」

かなりの程度推察がつく。その上、後には自分で書いた伝記をくじ引きにして配布したり、怪しげな薬を淋病の薬として売ったりもしている。かなりのやり手である。世間が拍手喝采していた時、唯一批判をした人物がいた。馬場文耕で彼は幕臣であったが、著作と講釈で身を立てていたようだ。豊富な情報を駆使して世相を抉り秘事を暴く体の作品は読みごたえがあり、17種ほどの作品を残しているが、すべて資本屋を通して流布した写本で、一冊の公刊書もないのが、そのきわどい危さを物語っている。宝暦8年9月、当時審理中の美濃郡上藩の金森騒動にかかわる幕政批判の科によって捕らえられ、みせしめのため町中引き廻しの上、12月25日小塚原刑場で獄門に処せられた。

彼が活躍したのは宝暦4年からわずか5年間であったが、その危険な著作と鮮烈な生死のドラマは他に類を見ない。文耕の作品の基調に派、前将軍吉宗(享保元年1716〜延享2年1745在位)賛美と、現将軍家重(延享2年〜宝暦10年1760在位)批判があるとされるから、家重治政を謳歌した志道軒と相容れなかったようだ。しかし決定的に違うのが志道軒が狂人を装ったのに対して、文耕はあくまで理性で真っ向勝負を挑んで政権に抹殺されたという点であろう。考えさせられる点である。

幕末維新期にはさすがにほとんど忘れられた存在になっていたが、明治に入り明治26年5月の『文学界』(北村透谷、島崎藤村、樋口一葉、田山花袋ら)に星野天知が評論として「狂僧 志道軒」というのを掲載したのだそうだ。しかしこの評論の意味は実は民友社(山路愛山、徳富蘇峰ら)から「文学界」グループに向けられた不健康、不健全という非難に対する反駁の意図があったのだそうだ。志道軒の生き方の自由さを見せつけたわけである。

さて、どんどん息苦しくなる現代、街頭のパフォーマンスで政治批判をするのは、多分デモ行為(現在はほぼパレードという)だろう。そしてその主流はいかに参加者をのせて、鼓舞するかで、ラップやレゲーの音楽がその役割を果たしている。しかしそれ以上に広がらないのは話芸で政治批判をする名人が現れないことだ。私も結構アジ演説をするが、まずデータの正確さ、同じことは使い廻さない、他の人と被らない、そして誠実に言うとこまでが精いっぱいである。これにユーモアが加われが無敵なのだが。こんな馬鹿げた世の中話倒してやる。女志道軒を目指すぞ。

魔女:加藤恵子