魔女の本領
自らを無にして、身体を空の器として…

ヒルデガルド

 

『ビンゲンのヒルデガルトの世界』


斯くも理知的で、政治的にも的確な状況判断が出来、多くの女性に救いの手を差し伸べた中世最大の女性幻視者。800年を経て掘り起こされた見事な知の世界。

10年以上前に購入したまま本棚の神秘主義のコーナーに並べてあった。毎日が追い立てられるように過ぎてゆくので、ひょいと読んでみた。面白い。女性幻視者というと、如何にも精神的に問題がありそうで、その言動はあまり論理的ではないという先入観があるが、ヒルデガルトはその点で、明晰で、単にキリスト教に関わる幻視が教会に利用されると言うのとは真逆で、むしろ世俗化し堕落したキリスト教会を批判するものであった。中世後期であれば、殆ど彼女のような言動は魔女として虐殺された存在である。しかし、彼女は非常に知的で、自らを徹底的に卑下して、修道院にこもり、教皇と皇帝の両者の政治的な動向を見極めながら、いずれにも手づるを付け、女子修道院を守り通した。

この女性幻視者はヒルデガルトといい、1098年、領主の娘として生まれる。幼いころから幻視を見ていたが、他言することは無かった。貴族の娘の修道院入りに付き添う形で彼女も修道院に入った。当時の修道院は男子修道院が主で女子修道院は独立して存在することはなく、男子修道院の付属としての位置ずけしかなかった。それ故、ヒルデガルトも修道院に入りながらラテン語やキリスト教の正統な教義を学ぶことは無かった。その事はむしろ彼女の幻視とそれを元にした女子修道院運営に有利に働いたと言える。ヒルデガルトは40歳を過ぎてから、幻視を公言した。それは場所も日付けも明らかになっている。1141年、場所はプファルツのディジボーデンベルク修道院であった。彼女にとっては突如ではなかったが、周囲の人にとっては突如、「聖書の詩篇、旧新約聖書を論じた他の過カトリック文書の意味がひらめくように」彼女に幻視された。彼女はラテン語が出来ないと言うことで、上部の修道院が彼女に付けた修道士によってラテン語に書き記された。彼女にとってこの秘書的修道士が当時としては例外的に教条主義的ではなかったことで、ヒルデガルトの幻視した世界がカトリックの原理主義に埋没することなく、後世に残ったと言える。

ヒルデガルトの幻視者としての自己認識は、自らを無にして、身体を空の器として神の言葉を受け止めるチャンネルとなると言うことであった。このへりくだりの精神は、後、彼女が女子修道院を独立させ、そこをいわば俗世から、かつキリスト教会からの介入をさけ、アジールとして機能させるのに大きな意味を持った。ヒルデガルトの神学思想は同時代の水準から見て、初期のキリスト教教父神学の拘束の下にあったといえる。しかし、その理念は教条的ではなく、かなり自由で、独創的であった。たとえば、清貧を求め、贅沢から身を引いてはいたが、宝石を身に帯びたり、神に祈る時に修道女としては破格の髪を長く下ろし、華美な婚礼の衣装のような服を身につけたと言う。ヒルデガルトは世俗の男や夫に気にいられるためではなく、天上の至高の王たる人との永遠の結婚を演じた。この行為は他の修道院からは異教的逸脱と批判されたようであるが、ヒルデガルトは修道女たちの生活万般について、極度の禁欲主義を批判した。それは、食事の禁欲行についても同様で、極端は思い上がりに過ぎないと断じている。節度を保ちつつ神の御業を達成するためには体力の維持も必要と云う合理的精神であった。「おだやかに、やさしく、貧しく、蔑(なみ)されて」、子どもの純真さにおいて生の喜びに浴して生きる事。ヒルデガルトの信仰の中から、注目すべきは歌が、「新しい歌」が生まれて来た。彼女はヴィジョンを書き下ろしただけでなく、音楽的教養なしに、「新しい歌曲」の類を作曲した。それは77の宗教歌曲と音楽劇『オルド・ヴィルトゥトゥム(美徳曲)』として残された。この歌曲はいずれも当時のグレゴリオ聖歌の単線的な重厚な曲とは異なり、シンフォニックに移行する近代音楽の先取りとなっていたが、当時の人びとには「不安で非自然的、混乱していて、ときには奇怪であった」と聴こえたのは、常識を遥かに超えていたためであった。思うに、女子修道女たちが作業をしながら神を讃えて詠う歌は女声合唱であり、女性だけの音楽劇(いわば宝塚歌劇だ!!)となっていたようだ。ヒルデガルトの修道院は秘密の花園であった。

ヒルデガルトのヴィジョンを書き記したものは大部分は仲介者によって正統ラテン語として残されたが、そこを逸脱するヒルデガルト本人が残した「知られざる文字」「知られざる言葉」も確認されている。これは文字というよりは音を記したのではないかと言われていて、彼女が溢れだすヴィジョンは教会の言語体系を解体し、押し寄せる音の氾濫による「新しい言葉」となったようである。これを種村先生は「ジャズった」のだと書いている。

さらにヒンデガルトは女子修道院の庭に植物を植えて、いわば庭師の役割も果たした。多くは薬草園であるが、ここでヒルデガルトという名前と共に、種村は注目すべき指摘をしている。「ついでながら、ここでヒルデガルトという彼女の名そのものに庭園=薬草園の本質的意味が隠されていることを行っておきたい。Hildegardのgardは、いうまでもなく「庭園(Garten)」である。一方、Hildは古高ドイツ語で「戦い」の意味。「庭園」のgardはしかし、もともと垣根や生け垣で囲われた人間の居住空間を指す語である。あるいは英語のyardのように、普通、正邪を判定する世界の中心としての神聖裁判の場。『エッダ』の、渾沌から区別される人間界を意味するミドガルト(中心の庭)もその意味である。

そこに君臨するのは、きまって庭園の女主人もしくは女庭師たる、フリーデガルト(平和の庭)、リープガルト(愛の園)のような名の女性である。けだし庭園=gardは女性(神)に保護されたアジールの性格を備えているのだ。『庭園 パラダイスの文化』の著者ヴォルフガンク・タイヒュルトは、ここからヒルデガルトという名の戦士的でもあれば母性的=庇護者的でもある両義性を解明している」。名は体を表していたというわけである。彼女は『自然学』という本も残していて、今日の博物学であるが、非常に高度なものであるそうである。その根本理念は「自然のさまざまな被造物の隠された諸性質」を抽出して病気を治療しようとする実践の書で、本草学或いは薬学であり、医食同源の思想に基づく料理本でもある。最も優れているのは魚類の記述だそうで、それは過去の書物から取られたものではなく、彼女の住んだ地域と、旅の間に経験した実際の魚についての記述だそうである。また、ヒルデガルトは幻視者であるが、同じように幻覚に陥った者、当時は後の中世後期、近世初期の荒れ狂った魔女裁判のような事は無い時代ではあったが、狂気については、「悪魔憑き」として糾弾される存在であった精神障害者をヒルデガルトは女子修道院に受け入れ、正確な病因分析に則った病気として、修道院内で共同生活をしながら対処した。彼女は精神病を宗教的ないし擬似宗教的狂気とみなさない、中世において数少ない、しかも最も早い精神医のひとりであった。

このようなヒルデガルトは80歳を超える長命で亡くなるが、正統キリスト教とは異なることから長く忘れられていた。その理由は彼女の粗野なラテン語の為であるとも言われるが、15世紀ルネサンスの人文主義者も、啓蒙主義の時代にもヒルデガルト復活は起こらなかった。当然実証主義を重んじる19世紀には無視された。唯一啓蒙主義時代ライン旅行の途中のゲーテがその本をひもとき驚嘆したという。

そのヒルデガルトが復活を遂げたのは1977年、死後800年をへてドイツ国内で特別な文脈で浮上したのである。すなわちフェミニズムやエコロジー、ホメオパシーなどの気運に乗って躍り出たのである。また、彼女の幻視はユングの象徴とも連関すると言う指摘もされた。一方キリスト教会では列聖の動きもあったようであるが、いつの間にかうやむやになり、現在まで教皇庁の正式の列聖がなされたのかは不明なのだそうである。しかし1979年9月8日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はヴァチカンから「ビンゲンの聖ヒルデガルト」に祝賀のメッセージを寄せ、ドイツ連邦共和国政府は彼女の細密画の肖像を郵便切手にした。聖ヒルデガルトはようやく蘇ったのである。

彼女は幻視者として特別の精神構造を持っていたと言えるが、それを活かしきるために、あれこれをカモフラージュしたり、政治的に動いたりすることにどれだけのエネルギーを費やしたことだろうかと強く感じさせられた。ともかくヒルデガルトの女子修道院からは美しい歌声が聞こえたのだろうと思うと、なぜか涙が出て来る。なお、彼女の作曲した歌曲はCDになっているということである。機会があったら聴いて見たいと思う。

魔女:加藤恵子