魔女の本領
自分がいま何に抵抗しているのか…

波打ち際

『波打ち際に生きる』


波打ち際と時間という視点を3・11以降の現在を考えるキーワードとして読んだ。

毎日、原発問題や経済の在り様やらを考えながら街頭での行動に立つ時に、自分がいま何に抵抗しているのか、その思考の支えは何なのかに悩んでいるのを知る人は少ないかもしれない。そんなとき、詩人でフランス文学者で表象論の東大教授であった松浦寿輝の東大退官に際しての二つの講演を集めた本書に、納得させられる多くの点を見出した。

松浦は定年を待たず7年も残して東大を辞した。だいたい東大教授は退官後私立大学へと横滑りするのが普通なのだが、今のところは、その後、教職に就いておられないようである。

本書に収められた講演は、東京大学退官記念講演「波打ち際に生きるーー研究と創作のはざまで」と最終講義「Murdering the Time—時間と近代」の二つに分かれている。そして、見事なことに、二つはシンクロしながらも、重複する言説はなく、独立した論説として完結しているのである。

松浦は自己の身体感覚として、「波打ち際」というコンセプトを提示している。それはこころもとなさやよるべなさを感得し得る場であると同時に出会いの場でもある。陸と海とをつなぐ媒体として、そこには波が打ち寄せ、その波に打ち寄せられるものから珍しやかな物に出会う。このような場としての波打ち際で「こころもとなさをいとおしむ」と言う身振りや感性の傾斜が自らの創作を貫くモチーフなのだと書いている。その「いとおしむ」という語源は「厭う」からきている。つまり嫌悪するということであり、弱い者や劣ったものから目をそむけたいというネガティブな語感がそこにはふくまれている。

「いとおしむ」という行為は、単に可愛がる、愛玩するということではなくて、もともとは厭悪の情にはっしている。弱い者、劣ったものに対して、気の毒だ、可哀そうだと思う感情があり、その「可哀そう」が「可愛い」へと変化した。であるからして、「いとおしい」は同時に「厭わしい」「労しい」「痛々しい」といった言葉とも共鳴する言語であり、同時に「いじらしい」という言葉とも縁語である。松浦はこの様々な感情を含みこんだ「いとおしい」をキーワードとして、精神の波打ち際を見定めようとしてきた。

精神の波打ち際に立つことに松浦は三つの特性を提示している。一つ目は境界領域であると言う事。不安定さ・不確実さ・不分明さ。二つ目はこころもとさやよるべなさの感覚を実感させる場であり、存在が海に向かって露出される場である。波打ち際に立つとは、異界のへりに立つことで、海に向かっては晒される緊張感を、陸にむかっては守られていると言う安息の感情を同時に感得する場であること。そして三番目は、異界からの他者を迎える場であり、予感・畏怖・誘惑の場である。この三番目の場としての感性に私は強く惹かれたのであるがそれは後に触れるとして、松浦が過去に経験として、波打ち際の鮮烈なイメージを抱いた場所が、映画のスクリーンであったと言う点には、印象深かった。松浦はこう書いている。

「映画館のスクリーンとは、その彼方からイメージと音響の波がダイナミックに打ち寄せてくる。危機的にして魅力的な境界にほかなりません。打ち寄せてくる映像と音響の波動に身をさらし、心もとなさといとおしさとでもって、それと出会うという体験」

このスクリーンと言う波打ち際の体験には私自身も子供の頃、お祭りだか、夏休みだかに野外のスクリーンに映し出された映画の不思議な感覚を思い描ける。風が吹いてゆらゆらしていて、そこから見たことのない珍しいものが眼前に現れる感覚は、確かに波打ち際の意味が感得されたのかもしれない。その後、映画館に入り浸った時も、何が何でも最前列で見ないと気が済まなかったのは、他人の存在を消して、自分ひとり波打ち際に立ち、こころもとさを感じたかったせいだったのかと思いが飛んだ。

松浦は折口信夫の「海やまのあいだ」に触れて、日本そのものが波打ち際そのものとの意味であると指摘している。また折口の民俗学研究は、共同体のへり、つまり内部と外部の間の境界領域へそそがれた執拗な視線にある。つまり「まれびと」論であるが、定期的な異人の介入によって共同体が活性化される。この指摘は取り立てて目新しいものではないが、現時点の日本の存在を見る時、何が日本を再活性化させ得るのかを考えざるを得なかった。

そして、もっとも考えさせられたのは「3・11の衝撃」との小見出しのついたものである。松浦は「こころもとさ」と「いとおしさ」という二つの概念に限定して波打ち際と言うトポスに快楽的なユートピアというか、退行的な安息と安逸のトポスを見て来ていた。それを決定的に打ちのめしたのが東日本大震災であったとのべているのだ。波打ち際と言う空間が怪物的に立ち現われ、これまでの快楽的な生のトポスが反転して、激越な暴力が跳躍するネガティブなトポスとなり、「こころもとさ」も「いとおしさ」もあったものではない。圧倒的な非人間的な何かを目撃したというのである。

その時松浦は自らが創作の基礎に置いていた波打ち際と言うトポスに「こころもとさ」や「いとおしさ」に加えて、「荒々しさ」を加えることがなければ波打ち際のイメージを十全に捉えることはできないと書いている。この指摘は痛切である。あれから5年が経とうとしている。大震災と津波の破壊力に打ちのめされたはずの日本である。それでも、再び波打ち際に立ち、新たに未来への生を紡ぎ出せるかもしれなかった。しかし、福島原子力発電所の過酷事故は、その波打ち際のあわいの危険性に、暴力性に目をつぶろうとしている。目を開けて、この荒廃してしまった土地に確固とした哲学を持って対峙しなければならないと思うのである。

最終講義「Murdering the Timeーー時間と近代」これはまた、近代的システムとしての時間についての明快な講義で、興味深いものであった。英語のタイトルを記憶されたい。冒頭ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の白ウサギの時計から出発する。このシーンは私は高山宏先生の指摘では、アリスがお姉さんの傍らで退屈し切っている、このことからなぜアリスは退屈しているのかという視点でヴィクトリア朝時代のあれやこれやを導き出す導入部として学んだ。この部分から松浦は時計=時間(近代的時間システム)について導き出している。時間をめぐる支配と被支配の絡み合いが、一種のパラノイア的な感性が、近代的心性を特徴付けているのだということである。その「近代的時間システム」、つまり物理的時間の出現はダーウィンの『種の起源』にあるという見方である。

認識不足ではあったが、『種の起源』がいわゆるパラダイムチェンジの鍵ではあるとは思っていた。近代の知的世界に及ぼした影響が大でることは認識していた。しかし時間概念についてはあまり考えなかった。ダーウィンの時間は『種の起源』第14章で、ダーウィン理論によれば、個体差によって淘汰が行なわれ、徐々に、漸進的に生物が進化する。とすると進化途中の「中間的変種」が化石の形で数多く見出されなければならないはずだが、これが発見されないのはなぜかという批判に対してのもので、それはダーウィンが論じている時間は生物の進化の歴史が人が想像できる時間をはるかに凌駕する長い時間だからである、というのがダーウィンの答えである。進化とは想像しえない時間の中で進行してきた。人間が想像しうる時間は、生身の身体とそれを取り巻く現実からの類推からせいぜい届き得るほどのものなのである。これが、最終的に私が決定的にこの本から受けた時間論の中心となるのであるが、それは後ほど。

本書の中で「近代的時間システム」の表象の例が興味深かった。時間の「空間的表象」と言う問題である。それが「連続写真」からリュミエール兄弟のシネマトグラフへと発展してゆく運動表象の視覚装置によって初めて可能になった。従来の絵画や写真が、ただ一つの画面のうちに或る特権的な一瞬を切り取ろうとする欲望に衝き動かされて創作された野に対して「連続写真」は、それとは全く異なる表象的欲望が露出している。それは「近代的な時間システム」から発する欲望であった。写真と映画の本質的な差異である。物理的な時間は「近代的時間システム」として資本主義経済のための装置に他ならない。

しかし、この持続の中から一瞬だけを切り取って、それを固めて永遠化する技術としての写真は、「近代的な時間システム」に対してのアンチを突きつけているともいえる点で近代を論じるうえでの指摘としては興味深い。近代の精神の中にある時間を尊重し、それを節約し、浪費することを戒める言説ーー「間に合うこと」の重要性と時間に遅れることの恐怖、それによって人々の精神と身体を拘束する言説が強力にあり、その一方で、同時期にこれへの反抗、即ち反=時間システムの言説がまた存在した。ニーチェの複雑極まる「永劫回帰」の意味するもの。ボードレールの『パリの憂鬱』にみられる時間。貧しいパリのアパルトマンでドラッグの中にあるユートピアは時間を殺した永遠なのだが、そのドアが叩き破られた時に入って来るのは殺害に失敗した「時間」なのである。

「今や(時間)がふたたび姿を現した・・・今や(時間)が王者として君臨する。そして、この醜い老人とともに、彼に従う魔性の伴廻り、思い出、後悔、痙攣、恐怖、苦悶、悪魔、怒り、そして神経症が、ことごとく戻ってきた」。

時間には「システム=制度」としての時間があり、「世俗性」と「測定可能性」と「抑圧性」によって定義される。これが現在まで律している。これに対して反感とか憎悪とか絶望といった、ィマージナルな感情を帯びる反=システムの言説が存在することになると松浦は総括している。

突然のように思い出したのだが、たしかスペイン内戦の映画だったのだが、アナキストの兵士が村に入った時に最初に教会の鐘を撃ち落とすシーンを思い出した。教会の鐘とは、近代以前からあるとはいえ、人間を時間に拘束する明らかなシステムの初めであったのだと、思い至った。

最後に、この時間の考察を読みながら、再び私は原発事故を思い起こしたのである。福島の原発事故の収束は今や不可能である。そして原子の時間と言うのは、個人の生の時間を遙かに超越する長さである。それに向き合う二つの姿勢がある。ひとつは、見届けられないなら責任はないとする原発推進派のもの。もう一つは自らの生涯で責任をとり得ない長さのものへ魂の奥底から責任を感じる者。私は後者でありたい。それゆえ、原子力に依存する社会には反対するのである。

魔女:加藤恵子