魔女の本領
辞書を読むようなポルノ映画の本…

ポルノ美学

『ポルノ・ムービーの映像美学: エディソンからアンドリュー・ブレイクまで 視線と扇情の文化史』


今回ばかりは本領を発揮することができなかったことをまず言い訳として書かなければならない。とても私が手出しできる領域ではない。そこで、少しばかりの私の経験を加味して、絶賛紹介ということでお許し願おうと思う。

ともかく431ページもあり、分厚い。ドドーーンとポルノ・ムービーの歴史が書かれているわけであるが、以前に同種の著作があり、その延長に書かれたのではないことが驚きだ。つまり著者がすべて手に入れ、詳細に見た上で書かれたと言う事が、最近お手軽な本が多い中で、群を抜いた本らしい本と言う事ができる。「神は細部に宿る」というわけで、著者の専門であるファッションの知識から最初期のポルノの時代特定が履いているヒールの形からミシガン大学が特定した年代の間違いを指摘している点には驚かされた。

さて、この魔女は決してガチガチのフェミニストではないので、最盛期の日活ロマンポルノは全部とはいえないがかなり見た。当時わたしは世に言う所のお嬢様大学に行っておりました(国立大学に落ちたんだから仕方がない)ので、友人はいなくて、何故か映画館が最適な場所であった。多くは東映ヤクザ映画やアートシアター、洋画は池袋文芸坐地下であった。日活ロマンポルノは新宿でした。傑作は母との確執で家を出ていて、正月も帰らなかった。ある大晦日にロマンポルノを見に入ったら、客が3人しかいなかった。あのときの滑稽さと侘しさは、言葉にならない。そんな時に、なんと本書にも登場するハードコアポルノ『ディープ・スロート』を見たのだが、ストーリーなんか全然覚えていないのだが、ひどく滑稽で、これってどう楽しめばいいのだと思ったのだ。その後も、ハードコアを何本か見ている。ソフトの方は例の有名な『エマニュエル』は何本か見た。しかし、女性が見ると言う点では、ポルノ映画の見方が分からなかったというのが実感であった。

本書はアメリカのポルノ映画の変遷とそれへの政治的介入や映画としての変遷はもとより、女優の容姿や表情、化粧や下着の美的感性の変遷等にも筆が及んでいる。もちろん、主たる関心は、直接的な性的描写が作品ごとに詳細に書かれていて、息づまるような感じがさすがだと思う。私個人としては、例えばサブタイトルにあるように視線の在り様とか、鏡を使った映像とか、ゴージャスな舞台設定がどの時点で出てきたのか、とかがとても気になったし、最終的に黒人がポルノ映画の主役になることがなかったのだなーとの印象をもった。ポルノ映画での基準にかんしていえば筆者はしばしば「いやらしい」とか「エロい」という言葉を使っているが、これがリアルな感覚を映像化していると言う意味で捉えることが可能だ。筆者はこう表現している。「エロ(エロティックというよりももっと生々しい直接性を込めて、この言葉を使っているのだが)とは、往々にして美とは両立しない。美しいものは理想化の高みに上ってゆくことによってエロとかけ離れてゆく。エロとはもっと下層にあり、皮膚感覚などをともなうものだ。ジョルジュ・バタイユの論を引用するまでもなく」と記している。

映画のタイトルについても、指摘されている点に興味を持った。それはいわゆるパクリだ。視る者がその点を理解していたかは別にして、監督や製作者がストレートの映画への思い入れがあったかもしれないが、それよりもずっと過激に、一皮むけばこっちが本物という意識性がなかなか面白いと思えた。この点で思い起こすのは大島渚の『愛のコリーダ』(これは日本版は映倫のためにズタズタで全く映像として意味をなさかった。のちにフランス版からDVDではじめて実際をみた)のいくつかのシーンが、じつは日活ロマンポルノの神代監督の映画のシーンとほぼ同じで、大島の方がパくったと思ったものだが、アメリカ映画のポルノがタイトルや少なからず内容もパクリというよりはアンチテーゼなんだろうと思った。残念ながら輸入の際になんだか訳のわからない日本語タイトルが付けられたのは残念だった。

本書の秀逸な部分はやはり服飾に関わる点ではないだろうか。裸がすべて、性行為がすべてであるポルノ映画の変遷を見切る視点がガーターベルトであり下着であるという点が面白くもあり、我ながら思いもかけなかった。著者は「時代感覚(ツァイトガイスト)」と表記していて、身体を覆い尽くす衣服には確かに流行と言うものに貼りつく「時代感覚」は感じていたが、下着かーと感服した。また、ストッキングの皺についてジル・ドゥルーズの『襞』がエロティシズムに触れていないという指摘は、確かに言われるまで気がつかなかった。ドゥルーズは衣服の襞のバロック的な意味を示したものであるからして、そこまでは捉えきれていなかったのだろうとはおもった。筆者の餅やは餅や的読みに驚いた。

本書の特色に、映画に絡むポスターやポルノ雑誌についても触れられている。わたしの認識ではせいぜい「ペントハウス」「プレーボーイ」位であり。とても論じる能力はない。ポルノといえば当然政府の介入、取り締まりとの戦いがあり、その裏で何が行なわれていたのかはなかなか深い意味がある。80年代のレーガンの保守政権がポルノ業界を襲った打撃のなかで、時の司法長官エドウィン・ミーズが「イラン・コントラ事件」の主役であったと言う事に驚いた。ポルノ抑圧の裏で行なわれていたニカラグアの右派の反政府勢力コントラへの支援をしていたと言う事の意味は大きい。ニカラグアでの内戦がいかにアメリカに支援されていて、その集結がどれだけ困難であったかを知る者として、清潔さを詠う政権の危さを思い知らされた。日本の今後を占うカギになるかもしれない。

最後に、さて女性にとってポルノとは何だと言う点について感想を書くとしても、圧倒的に蛇足でしかない。つまり、視る機会がないだけで、たぶん見たら楽しいのかもしれない。しかし、日活ロマンポルノの結構な物語性は好きだったが、ブルーフィルムを視る機会はなかった(一度だけあったのだが、用事があって見られなかった)のだ。現在のポルノ事情は全く知らないので、どうにもなりません。というわけで、辞書を読むようなポルノ映画の本。夏の休暇にどうぞ。

魔女:加藤恵子