魔女の本領
老いを認めないことは恥しらずだ…

老いの荷風

『老いの荷風』


そもそも魔女は著しく老いている者であるからして、いまさら老いを云々することはいかがなものか?と思いながら社会構成が老人が多数を占めつつある現在、やけに元気な老人やらが賞賛される風潮が気味が悪い。さてあまりにも著名な永井荷風、その老いについて書かれたこんな本を読んでみた。

『老いの荷風』川本三郎著 を読む。

荷風が死去したのは昭和34年(1959年)4月30日。79歳であったそうだ。その最後について私が記憶しているのはもちろん新聞記事であるが、今で言うところの孤独死で、吐血して死去していた。浅草の踊り子を慈しんで通い、信玄袋に全財産を入れて持ち歩いていたとか言われていた。私には変な爺さんだな―という印象であったが、その孤独死の印象が強かった。にもかかわらず働きだして最初に買ったのが荷風全集であったのは何故だったのか、今になってみると、その孤独ということにひどく惹かれていたのではないかと思うし、結果的に現在の自分も又その孤独で老いる現実に直面している。さらにビックリしたのは著者の川本三郎が今や孤老であるとあとがきに書いてあるからだ。川本といえば「朝日新聞」の記者であったときに朝霞の自衛官殺害犯をかばい実刑を受けたことで、その犯人の胡散臭い人物に人生を振り回された印象が強く、常に彼の著作は読んでいた。その問題の事件については何年か前に「マイ・バックページ」として本人が書いている。その彼も又、づっと若者であったかのように思っていて、わたし同様に老いていたということに改めて当然のことながら時は流れるし、人は老いるのだという感慨が浮かんだ。

しかし本書によって明らかにされた永井荷風は昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館を焼かれたあと、兵庫県の証を経て、岡山へ疎開、敗戦で東京にもどり、知人・友人の好意を受けながら、転々と住居を変えながら、生活にあくせくする様子もないかのように生きている。すでに敗戦時50代で当時で言えば老人である。その彼が、どこへでも歩く、歩く、そして中心から周縁へ、さらには大通りから裏道へ、そして浅草の踊り子へと。

荷風の文学については、これまで花柳小説という風なくくりで論じられるものが多かった。それ故、女性には評判が悪い。現時点でもさして読み継がれているとも思えない。しかし細部にこだわり読み進む荷風論も出ている。野口富士男は永井荷風の花柳小説の舞台がどこであるかに着目して、『腕くらべ』では新橋という一流地を描き、『おかめ笹』では当時としては最下層の花街であった麻布十番へと行き着き格の低い芸を描いた荷風は、次に新しい風俗であるカフェの女給を主人公にした『つよのあとさき』を書き、さらにそのあとには女給より格下の私娼と、そのヒモを主人公とした『ひかげの花』を書いた。野口富士夫は主人公も場所も下へ、下へと落ちていく荷風の場所と風景が最後には絵にもならないひかげの風景に至り、そこで目立たずにひっそりと生きる女がむしろ鮮やかに風景と共に立ち現われる小説であると喝破している。野口富士夫は『墨東綺譚』について花柳小説であるを前提としつつも、玉の井という場所を描いた風景小説であるして「『墨東綺譚』における永井荷風は風俗作家ではなく、詩人である」「(略)あの汚濁のなかからこのような美しい作品を紡ぎ出した荷風の詩人としての力量を、あらためて痛感せずにはいられなかった」と書いているそうである。川本はまた「『墨東綺譚』の美しさは、私見では、執筆当時、57,8歳になる当時としては老人の荷風が自らの老いを意識して、いわば末期の目をもって玉の井を、そして若いお雪を見たことから生まれたものだと思う」と書いている。つまり、老いのもたらす「寂寥感」が荷風に書かせた美であると。

荷風はよく歩いたし、街娼を描いた。そのために女を買った。しかし荷風はまず詳細な地図と風景が書き込まれなければ小説にならないというために歩いたらしい。そして女を書くために買ったが、けして売春を目的としていなかったようである。その種の女たちがどういう生き方をしてきたのかを知りたかった。そのための取材であった。『断腸亭日乗』の昭和24年6月15日には、浅草の地下鉄の入口近くで、荷風は街娼に「永井先生でせう」と声をかけられる。新聞などに出ているので知っていると言う。しばらく話をして電車が来たので「煙草の空箱に百円札三枚入れたるを与えてわかれたり」とあるそうで、三日後の18日、浅草で再び、この街娼に出会う。吾妻橋の上でしばらく話す。女の身の上を聞いたらしい。そのあと荷風はこんなふうに書いているのだそうだ。「今宵も三百円ほど与えしに何もしないのにそんなに貰っちゃわるいわよと辞退するのを無理に強いて受取らせ今度早い時ゆっくり遊ぼうと言いて別れぬ。年は21,2なるべし」「その悪ずれせざる様子の可憐なることそぞろに惻隠の情を催さしむ」。とあるそうである。下層の女の気のよさが荷風の心を惹きつけられているようである。荷風は見る人であり、その徹底した見る行為の先に荷風の優しさ、純真さもが含意されているようである。一般社会が偏人、好色な老人、金に汚いとかいう表面の奥に荷風の老いを自ら引き受けて孤独を恨むのではなく、見るものをより純化した文学者としての魂のありように少なからず戦慄した。

荷風は文化勲章を受けた。その勲章も荷風にはたいした価値を意味していなかったらしい。かれはいつも持ち歩く信玄袋に入れていて、踊り子の遊び道具にされていたという当時の新聞記事を思い出す。荷風が荷風としてとても嬉しそうであった写真は踊り子に囲まれている楽屋で撮られた写真であった。今どこかでみられるのであろうか?そして最後に、荷風の最晩年にそのそばに女性が居たことが明かされている。「断腸亭日乗」にも実は記載はあったが誰であるか判明していなかったのだそうだ。阿部雪子という女性で、ときおり家事を手伝っていた。しかしフランス語の素養もある知的な女性で、「断腸亭日乗」には戦前昭和18年2月14日、「阿部雪子と云う女よりようかんを貰う」というのが初出でせんごは50回ほど登場するそうであるが、荷風は詳細を書いておらず謎であった。この女性を探り当てたのは高橋英夫の『文人荷風抄』だそうである。荷風の葬儀の時、ひとりの慎ましやかな女性があらわれた。通夜にも葬式にも一人で来てひっそり帰った。「その床しい後ろ姿に、私は思わず目頭を熱くしてしまった」。この女性こそ阿部雪子だったらしい。これを証言しているのは年下の友人で実業家で愛書家の相磯凌霜(あいそりょうそう)だそうである。

荷風は老人として文学を始めたわけではもちろんない。若かりし日の発禁になった『ふらんす物語』を発禁という視点から今読みなおすこともできるだろう。しかし老いてからの荷風の下へ下へと降りて行きその底に垣間見える人間の誠実な生の姿を書いたのだとしたら、その文学の力の強靭さを私たちは学ぶべきであろう。老いを衰弱、衰亡、孤独、無価値とする思考も、またその逆の老人の無理する若さの強調も、あまりに表層的である。老いることは恥ではないが、老いを認めないことは恥しらずだといえるかもしれない。

こんなことを書いている現在、2018年度の芥川賞が何んと『おらおらでひとりいぐも』若竹遊佳氏に決まったと言う。夫を亡くした老女の話なのか?時代は孤老なのか?

魔女:加藤恵子