学魔の本函
『みみずく古本市』由良君美 を読む!

みみずく

『みみずく古本市』由良君美


この一冊で、戦後の思想の系譜が概略分かるという驚くべきエッセー本!!

もちろん、1984年の復刊書である。それも、ほぼ当時の新刊の書評から成ってる。由良君美と言えば、四方田犬彦の『先生とわたし』に描かれた晩年のアルコールに蝕まれたのか、東大での確執に疲れ果てなのか、よれよれの姿が痛ましく思い浮かぶが、この本の書かれた70年代、80年代は実に見事な活躍が美しいのである。選ばれた本は、後記によれば、頼まれたものと書いているが、その本が見事に統一され、由良の思想・哲学の在り様を示している。そしてまた、それらの本が現在もなお、基本的文献となっており、その批評は今だからこそ言えるのだが、正確で、的確なのである。全体を読み渡せば、戦後から現在に至る思想の地図が理解できることになる。その世界は、言語学・文化人類学・宗教学・精神分析にわたり、由良の英文学を論じる背骨としての明確な姿勢が、深い知識に裏づけられたものであることが読み取れる。中には、明らかに名ざして激しく批判しているものもあるが、それは、アカデミズムの名を借り、そこに安住し、深く学ぶこともしないで評論のお茶を濁しているような輩である(明確に名指されている)。由良の洒脱な文章や戯作への趣味から、由良がやわな人物と考えると大間違いである。彼のどのエッセーを読んでも、深く読み込み、正確に紹介し、厳しく評論している。それ故、実に論旨明快で、硬質な評論が多いのであるが、取りあげられた本そのものが、怪奇小説であったり、オカルト本、シャーロックホームズであったり、吉田健一であったりするから、由良の好む文学が雑な物とされる世俗の評を、彼の反骨精神で見事に生き返らせる役割が果たされている。由良は雑本こそ発想源だと明確に書いているし、かき集められたものを集合したものに大きな価値を見ている。例えば山口昌男の評価がそれである。コラージュされた中から立ち現われる新たな世界を重要視しているようだ。また、批評について、大方の日本の論壇では理論がなく印象批評が幅を利かせていることに激しく怒っている。ただ、しかし、西欧の理論を次から次へと翻訳し、読み捨てればいいのではない。そこから汲みとられたものをもって自律すべきだと考えている。

印象的であったのは、やはりホッケのマニエリスムに関わる諸書、構造主義と言語学、精神分析のからみをラカンの本で説いてみせているし、ロシア・フォルマリズムへの深い感慨、花田清輝の評価、観念史学と図像解釈学、ヴァールブルク学派の紹介などであるが、私の心に響いたのは、由良が思っていた以上に政治的な意識性を胸に抱いていたのではないかと言う点である。ユートピア思想、アナキズム(ロシア・フォルマリズムもこの文脈からも読めるが)などにきちんと向き合っているからである。そして、このエッセーの中で唯一、著者に敬語で接しているのが、井筒俊彦である。由良は講義を聞いた時点では理解し得なかったが、「しかし、今は少し、当時よりましに追体験できるようになった。もし70歳になったら、もう少し今よりも分かってくるだろう。しかしその時、先生のように果たして表現出来るだろうか」と書いている。これは誠実な接し方であるが、まさに由良にもし長命が許されていたら、わたしたちも、更に得ることの大きいものを残し得たと思えるのである。

ちょっと、ふざけて書いて見るが、学魔高山宏が踏むしめているあれこれが、そこここに散見されるのである。と言うことは、学魔は見事に由良先生の学を引き継いでいるということが分かるのである。その罵倒のしかたも又しかり。

魔女:加藤恵子