学魔の本函
『謎ときシェイクスピア』を読む!

シェイクスピア

 

『謎ときシェイクスピア』


シェイクスピアって、本当は誰なの?生誕450年、学魔高山師が語ると謎が深まる。

『謎ときシェイクスピア』河合祥一郎著 を読んでみる。実はこの本も積読本の中にあったのだが、9月末に学魔高山師との対談が組まれている。その上、学魔高山師から河合先生はかの高橋康也先生の女婿だと聞いて、あわてて読んだのである。ついでに河合先生は現在文楽の台本を執筆中とかで、突然気になりだしたのである。どうもシェイクスピアって余りに偉大すぎて心が動かなかったのであるが、去年確か「二人のシェイクスピア」という題の映画が来て観たので、なんだかシェイクスピアって裏があるらしいとは思っていた。学魔高山師によれば、シェイクスピアが現在我々が知っているシェイクスピアになったのは、実は1920年代で、モダニズムの全盛期にエリザベス朝の再評価がなされてからで、この間実に350年間シェイクスピアは翻案された物しか上演されなかったのだそうだ。何があったかと言えば、勿論学魔のお得意の王立協会とピューリタン革命、とどめを刺されたのが劇場封鎖令で、この間シェイクスピア演劇で、ハムレットは悩まず、リア王は発狂しなかったのだそうだ。1920年代以後、シェイクスピアの上演、研究はイギリスよりもドイツ、東欧が盛んだったようで、その典型が、世界を驚愕させたヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』の出版であったようだ。

このシェイクスピアについて、誰だかよく分からないらしいということは知っていた。河合先生はこう書くところから始めている。

「はじめにー疑うことから始めよう。本書の目的は、シェイクスピア学の「常識」をひっくり返すところにある。」

疑うということは、否定してかかるということではなく、それが正しいと言える根拠を求めるということなのである。

そうした姿勢を貫くことによって、シェイクスピアをもう一度見つめ直そう。そうするとさまざまな疑問が浮かんでくる。シェイクスピアにつきまとう「謎」の多さに驚くことになる。1564年にストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれ、1616年にその地に没した役者ウイリアム・シェイクスピアーーー「ヒトゴロシの芝居をイロイロ書いたシェイクスピア」と憶える。

最も人気のある別人説はかつてはフランシスコ・ベーコン説だったが、今ではオックスフォード伯爵説が優勢だ。

シェイクスピア、オックスフォード伯説を支持した有名人の中に、あの精神分析の大家フロイトがいたこと、名優オーソン・ウェルズがいたこと、そして高名なシェイクスピア俳優サー・デレク・ジャコビがいたことを。

実際、シェイクスピア学者たちがこれまで定説としていたことをひっくり返すことに本書の眼目のひとつがある」。

なぜ、シェイクスピアがストラットフォード・アポン・エイヴォンに墓がある人物ではいけないのか。それは、この田舎町から出たポッと出の役者風情に、あんなに貴族趣味や海外の情報が豊富に判るわけがない。その上、墓石の「この墓を暴く者に呪いあれ」とか陳腐な言葉を書くはずがないし、故郷に残されたシェイクスピアの生存の跡が訴訟沙汰とか蓄財の証拠とか、挙句には遺言に当時貴重だった書籍遺贈の記載がない上、書籍が一冊も残されていない。いわば煙のように消えてしまったことで、シェイクスピアは貴族階級の覆面作家なのだという一連の流れが出来て、エリザベス朝最高の文化人ベーコンに始まり、候補者は6人もいるんだとか。しかし、興味深いのはアカデミズムはシェイクスピはストラットフォードの男であることに固執し、アマチュアは別人説に固執して、互いの説の穴をつつきあっただけで、本質的な謎の解明をしようとしなかったらしい。別人として挙げられたフランシス・ベーコン、クリストファー・マーロー、第六代ダービー伯爵、第五代ラトランド伯爵、ヘンリー・ネヴィル、それぞれがシェイクスピアとされた根拠がさもありそうでとても面白い。

しかし、田舎者ウィリアム・シェイクスピアの欠点として挙げられた教養のない金にきたない役者という点は、詳細に辿れば、父親はストラットフォードの町長で、確かにカソリックであることを守ったために、迫害され家は没落し、シェイクスピアは少年のころに近隣の有名貴族の家の家庭教師として住みこんで、そこで書籍を読破したらしいことが分かり、教養がないというのは当たらないらしいし、蓄財に励んで、ストラットフォードに穀物を蓄えたのも、それを高値で売るためのしたたかな処世術だったようで、別に非難されることでもない。当時劇作家は役者の収入に遠く及ばなかったようだし、彼がカトリックであることは、いつ迫害に晒されるか分からない状況を綱渡りで生きた事にもあるらしい。また、当時の戯曲は役者のパートごとに台詞が書かれていて、完全な台本と言う物はなかったと学魔高山師は言われているが、これは正確には台本は小屋主に所有権があり、確かに役者には台詞のパートしか渡されなかった。それで、そのパートをまとめて書きこんで丸めた物がroleでつまり劇の役の意味となる。高山師は戯曲は当時印刷されなかったと言われているが、正確には、そうでもなくシェイクスピアも生前に約半分は印刷されたらしいがそれは当時の豪華本としてではなく、ペラペラの八つ折本で、まーパンフレット並みだったらしい。これが書籍として出版されたのはシェイクスピアが死んだ年一六一六年、ベンジョンソンが自らの戯曲作品を『先品集』として、二つ折り本(フォーリオ)で上梓したのであるが、これは当初世間で笑い物になったらしいが、ともかくシェイクスピアのファースト・フォーリオが1623年に出版されたのも、ジョンソンの『作品集』が評価されたからに他ならない。つまりシェイクスピア自身が生前自分の作品に文学的価値を置いていなかったということである。現在シェイクスピアの戯曲は40作とほぼ確定している。

河合先生がシェイクスピアの謎に挑んだのは、シェイクスピアの専門家の中で誰も異議を唱えてこなかった、ロバート・グリーンの『三文の知恵』(1592年)という本の中にシェイクスピアに初めて言及した文章があると云うのが「定説」になっていて、その内容は役者のくせに新進劇作家として活躍するシェイクスピアを劇作家グリーンが「成り上がり者のカラス」と揶揄しているというのである。これについて河合先生はなんかおかしいと思われた。そこで詳細な分析を始めて見た。ロバート・グリーンが貧窮して死の床で罵った「成り上がり者のカラス」とは、どうも当時の有名俳優エドワード・アレンのことではないかとの結論にたどり着いた。この事を2002年日本シェイクスピア学会で「『成り上がり者のカラス』はシェイクスピアではなかった!」と題して講演したが、シェイクスピア学者からは「説得力に欠ける」と忠告されたのだそうだ。それからさらに慎重にイコンとなったシェイクスピアと言う概念を見直す視点からまとめ直したのだそうだ。しかし、国際シェイクスピア学会で探りを入れても、河合説は入り込む余地がないらしい。しかし、意外や意外、英語版ウィキペディアではEdward Alleyn の項目に「成り上がり者のカラス」は彼のことだという記載があるということだ。やっぱりシェイクスピア別人説を取るのは純粋な専門家ではないという法則がここにも当てはまるのであるが、勿論河合先生は純粋な専門家であるが、あとがきに「本書がミステリー好きの人に楽しんでもらえる本」として書かれているから、学魔高山師同様、学界からは放り出された本当の意味のアマトール(アマチュア)な両者なのである。

魔女:加藤恵子