学魔の本函
川端康成をピクチャレスクで読む!

文学

 

文学 2013年 08月号


「文学」2013年7・8月号〈特集 浅草と文学〉掲載、「尖端的だわね。」-「浅草紅団」の「目」高山宏を読む。

学魔高山は最近とみに近代日本文学に挑戦的な読みを仕掛けている。ピクチャレスクの視点から漱石の『草枕』和製ピクチャレスク文学と位置づけ、同年発表の泉鏡花の『春昼』『春昼後刻』で描かれた世界もまた、ピクチャレスク。更に又、永井荷風の一連の花柳小説が「アーバン・ピクチャレスク」(ポーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』)の枠を極めたものだとしている。筆は走り、『魔術師』の谷崎潤一郎や『押絵と旅する男』の江戸川乱歩がいかに最早都会の只中に持ち込まれたピクチャレスクだとして論じ、更には佐藤春夫の不思議な作品「月かげ」で、英語によって創作する友人の急死をうけて遺稿整理に掛った人物が、英語で書かれた見事にピクチャレスクな風景描写を発見し、その中に”picturesque(hues)”という語があったというくだりに遭遇して、大正・昭和初年の欧風文士連中の勉強ぶり、徹底したモダニズム感度の鋭敏さについて明快に説いてくれている。

さてそこで、「モダアン」の代表作としてあげられていて、「不朽の浅草風物誌」と評されている川端康成の『浅草紅団』を学魔は一切のストーリーとは関係なく、「モダアン」な視覚という視点から解剖している。川端の視点はパノラマだと云いきっている。冒頭の浅草の描写が、水平に拾い出す「浅草の底」と「地下鉄食堂の尖塔」からの「見晴らし」の浅草描写は徹底的に「絵」と見るパノラマニアックで、その表記法さえもが、ピクチャレスク・メタフィクションの傑作、ポーの『アッシャー家の崩壊』で多用されたダッシ(―)が使われているという。ヨーロッパ近代化(モダアン)の中で必要として生まれた観相術。川端の浅草描写はいわば街を観相術的に描写している。すなわち渾沌化した街を無理やり理解するための観相術であり、「絵」としてとらえれば、すなわちピクチャレスクとなる。

『浅草紅団』は風物誌などというちょろいしろものではないのだ。川端のぎらついた目できっちりと見据えて描写された「モダアン」の視覚モダニズム文学と言うわけである。日本パノラマ館や十二階が伊達に建っている浅草ではない。そこを舞台にして描かれた『浅草紅団』は「18世紀ピクチャレスクが点火した視覚モダニズムを一作で駆け抜けてみせる、近代視覚文化の中での文学の運命ないし趨勢を考えさせる究極のテクスト」と言うことになる。

悔しいが、どうしても学魔の論理には常に屈服させられてしまう。あまつさえ、名著の誉れの高い前田愛の『都市空間のなかの文学』さえも、「意外に不徹底」と一蹴してしまう学魔の行く手を阻む者はいない。

魔女:加藤恵子