情熱の本箱
和邇部の伝承が『古事記』のみに記され、『日本書紀』に記載されていないのはなぜか:情熱の本箱(318)

情熱的読書人間・榎戸 誠

池澤夏樹の書評集『いつだって読むのは目の前の一冊なのだ』(池澤夏樹著、作品社)に唆されて、論考集『悲劇文学の発生・まぼろしの豪族和邇氏』(角川源義著、角川ソフィア文庫)を手にした。

これらの論考の中で、角川源義は、尊敬する師・折口信夫の考えを受け継いで、独創的な仮説を展開している。

●猨田毘古の説話が古事記だけにあり、あんなに資料の豊富さを誇る日本書紀が全然取り上げていないのは、猨女君の家から出た稗田(ひえだ)氏の伝承していたものを古事記に記載したからであろう。

●悲劇の説話(ものがたり)を管理する語部――話者――は。自分の――あるいは自己の祖先の悲劇の主人公としての敗北の歴史を、その話を管理する者自身が語らねばならなかった。そうしなければ説話の真実性が出てこなかったのである。

●盲目法師や、瞽巫女(ごぜ)は旅から旅への生涯を続けていた。旅が彼らの人生であり、生活のすべてであった。彼らは自分たちとは、およそ両極端にある貴人(あてびと)がいかに栄枯盛衰定めなきが、人生の常とはいいながら、花のごとき朝(あした)の栄華の生活にひきかえて、夕にはあるいは海浜に、あるいは鄙さかる山里に、さすらいありき、家にあらば笥(け)に盛る飯を、旅にあれば椎の葉に盛るの嘆きをなす流離の生活が、いかに彼らの文学心を、刺戟したことであろう。眼の見えぬ盲人たちの心眼に深く貴人の流離の姿が、刻みつけられていた。貴人の流離譚を語っているうちに、自分自身の流離の生活体験がこの話の中に、這入り込み、物語る主人公が自分だという幻覚に、襲われたこともあったであろう。そんなことで、聞き手の感動も大きかった。いずれの戦記物語も、貴種流離譚がその物語の圧巻の部分であるのは、そうした事情を物語っているのではあるまいか」。「語り手自身がこうした語り方をしているうちに、この物語が自分自身に関する話だ、というように、いつしか自他ともに、信ずるようになり、語っているうちに、次第に、物語としての大きさを持つようになり、悲劇文学という、文学としての形体を、整えていった事情を、考えることが出来るのである」。この、問題の本質を鋭く捉えた、素晴らしい文章が、22歳の角川源義によって書かれたとは、驚くべきことである。この本を手にして、本当によかった――池澤に感謝したい気持ちである。

●私の乏しい経験では、古事記を初めて読んだ頃に抱いた単純な疑問の一つは、何故に、古事記に和邇部(わにべ)の話がこんなにも多いかということであった。この疑問は古事記を読みかえすごとに深くなったのである。・・・私は猨女氏に代って、新しい語部となった和邇部や、その同族の小野氏が日本民族の美しい叙事文学の管理者として、活動を開始したのは案外早くからであったように考えている。

●古事記には、応神天皇の条に見えるが、書紀に詳しい伝承が見えないのは、やはり和邇氏が、古事記を誦習していた稗田阿礼(ひえだのあれ)――猨女氏――に近い関係に、あったものと考えさせる、応神天皇の妻訪いの話がある。

●何故にこの和邇部の伝承が古事記にのみ見えて、日本書紀に記載されていないか。古事記――稗田氏――猨女君――和邇部。この関係を考えずしては説き得るものでない。

●古事記の伝承者稗田阿礼を出した猨女君氏の養田が和邇村と小野村に在った。その地に住む小野臣、和邇部臣の一門が、猨女を兼併して、彼らの中から縫殿寮に進め奉る猨女を出していたというのである。すなわち猨田彦、宇受売(うずめ)を祖とする語部の名門が衰亡し、新たに和邇部臣、小野臣等がこれに代ったことを語っている。

●和邇氏(ワニの表記として、丸・和爾・和珥などいろいろあるが、和邇に統一した)は天理市櫟本町和邇を本拠とし、奈良市周辺に栄え、さらに京都府・滋賀県へと進出した豪族であった。

●(柿本)人麿の出た柿本(かきのもと)氏も和邇氏から分かれた小氏であった。

●和邇氏の伝承していた英雄物語のなかで、特に大きな座を占めているのが日本武尊である。

●和邇氏の管理した英雄物語に登場してくるもう一人の重要な人物は、朝鮮進攻で知られる神功皇后(息長帯<おきながたらし>姫の命)である。

●天武天皇はなぜ、『古事記』と『日本書紀』と2種の史書を並行して企てたのであろうか。著者は、『古事記』は語りのテキスト、『日本書紀』は読む史書であったと考えている。

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