情熱の本箱
夏目漱石の妻の鏡子悪妻説を駁す:情熱の本箱(195)

情熱的読書人間・榎戸 誠

夏目漱石の妻の鏡子悪妻説が罷り通っている。この悪妻説が鏡子の耳に入らなかったはずはないが、鏡子は反論も弁解もしていない。鏡子というのは、実に肝っ玉の据わった女性で、鏡子だからこそ、その日、その日で機嫌が悪かったりよかったりという変幻窮まりない漱石の妻が務まったと言えるだろう。

漱石の思い出』(夏目鏡子述、松岡譲筆録、文春文庫)では、数え年で漱石30歳、鏡子20歳の時に始まり、漱石の病死まで20年間続いた結婚生活の思い出が、鏡子によって率直かつ正直に語られている。

漱石と鏡子の長女・筆子(松岡譲の妻)の四女・半藤末利子が、巻末の解説にこう記している。「(漱石は2年余りの英国留学への)出発前とは別人となって帰国したのである。それだけに生活は殺伐としたものとなった。筆子自身もよく殴られたが、おおかた髪でも掴まれて引き擦り廻されたのか、髪をふり乱して目を真赤に泣き腫らして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけたものだったと言う。世間では鏡子はソクラテスの妻と並び称されるほどの悪妻として通っているが、母に言わせれば、鏡子だからあの漱石とやっていけたのだと、むしろ褒めてあげたい位のことが沢山あったのだそうである。『あんなに恐いなら、そしてあんなにお母様をひどい目に会わせるなら、いっそお父様なんか死んでしまった方がよい』と子供の頃の筆子は何度思ったかしれないと言う。勿論鏡子が漱石と生活を共にした二十年間、一日も欠かさず漱石が狂気の沙汰を演じたわけではない。周期的に訪れた『狂気の時』の方が遥かに短いのである。しかも自分は小説家だから、常軌を逸しても許されるのだとか、ものを書けないイライラを家族にぶつけてもよいのだという傲慢さや身勝手さを、漱石という人は微塵も有してはいない。彼を恐ろしい人に変えたのは神経衰弱という病気であって、頭が妙な膜で覆われていない時の生(なま)の漱石は、稀にみる心の暖かい物解りのよい優しい人だった、とも母はよく言っていた。実際小説を書くために呻吟している漱石を筆子は一度も見たことがなかった。早稲田の家の、書斎の回りの廊下などで、どんなに子供達が騒いで走り廻っても、一向に平気で小説を書き続けていた。隠れんぼをして筆子の弟の友達が書斎に入り、胡座をかいて小説を書いている漱石の股の中にじっと隠れたこともあったが、そんなことを漱石は気にもとめなかったそうである。晩年には、随分よい父親だった時も多かったという」。

「『病気の時は仕方がない。病気が起きない時のあの人ほど良い人はいないのだから』と真実を受けとめそれに耐えた鏡子が、(本書で)真実を述べたからと言って、少しも漱石の偉大さを減じたりしないということを誰よりも承知していたのは、鏡子自身であったかもしれない。・・・いつか(鏡子と私が)二人で交わした世間話が、漱石の門下生や、鏡子の弟や二人の息子や甥達に及んだ時、『いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様(漱石)が一番いいねぇ』と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。また別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、『あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ』と言ったこともある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう」。

私生活における漱石の姿が、鏡子の語りによって、生き生きと甦ってくる。

「機嫌の悪いのもその時限りで、次の日かその次の日かには、私の年始の紋付を着て歩いてふざけておりました。いったい自分でもきちんとしたなりをしていることの好きな人でしたが、また女のきれいな着物を着ることが好きで、私が脱いでおくとよくそれを羽織って、褄(つま)を取ってみたりなんかして、家じゅう歩き回ったものでした」。

「毎々小言をくったものは、私の朝寝坊です。十時ごろまで寝ている女は、お妾か娼妓ぐらいのものだなどとだいぶ油をしぼられましたが、どうやってみても早く起きるとあたまのぐあいがよくないので、自然朝寝坊になってしまいます。そこで毎々こんな会話がくりかえされるのです。・・・私もまけてはおりません」。

「自分の中でいろいろなことを創作して、私などが言わない言葉が耳に聞こえ江、それが古いこと新しいことといろいろに連絡して、幻となって眼の前に現われるものらしく、それにどう備えていいのかこっちには見当がつきません。そうなりだすと何もかもみんな悪意に取りだすので、私のやることなすことが、話せば話したで、黙っていれば黙っているで、何もかも夏目をいじめ苦しめるためにやってると、こう感じるらしいのです。ですからよほど癪にさわるとみえまして、いきなり屏風の陰へ来て、『おまえはこの家にいるのはいやなのだが、おれをいらいらさせるためにがんばっているんだろう』などと悪態をついたりなどするのです」。

「おれはどうもおまえが気に食わないから、そのうちには(実家に)かえってもらおう。おとなしく帰らなければ、追い出してしまうといったような口ぶりです。私もそう言われてみればへえへえと敗けているわけには行かず、『私は悪いことをしないのだから、追い出される理由はありません。それに子供を残してなんでおめおめと出て行きますものですか。私だってこのとおり足もあることだから、追い出したってまた帰ってくるまでのことです』と抗弁して、書斎を出てしまいます」。

「いったいこの時以後気のついたことですが、(漱石の)あたまの悪くなる前には、まるで酒に酔っ払ったように顔が真赤に上気するのです。初めはそんなことに気がつきませんでしたが、後ではそれがわかり、子供たちまで上の方の娘などはそれを知って、いくら前の晩ににこにこしていても、顔がゆだったように火照っている時には、それ明日またと警戒しています。ときまって翌朝になると、がらりと雲行きが変わるのだから不思議です」。

「あたまのぐあいがよくなりかけると、だんだん怒る度合いが少なくなって、ただだまって人の様子を窺っているのです、私たちにはすぐそれがわかるのですが、自分ではあたまがなおりかけてきたとは思わずに、反対にあいつ近ごろはおとなしそうな顔をして飴を食わせているなと、それで気をゆるさずに警戒しながら眺めている様子です。しかしよくなったとは申せ、ほんの一時小康を得たという程度で、(明治)三十七、八、九と続いて、一進一退の状態でしたが、ほんとうによくなったと思ったのは四十年に今の早稲田の家に越してからで、それから大正二年までは、まずまずでないと言ってよかったでありましょう。その間にあたまの代わりに胃を悪くしてしまいまして、それがとうとう死病になってしまったのでございます」。

「(明治)三十七年はこんなぐあいに暮れました。お正月の三日に私が台所へ出てみると、(夏に迷い込んできた小)猫が子供の喰べ残しのお雑煮の餅をたべて、しきりに前足でもがきながら踊りをおどっております。女中たちとそれを見て、あんまりいやしん坊をするからと笑っておりますと、ちゃんとそれをきいていて『(吾輩は)猫(である)』の中に書いてしまいました。『猫』の中にはそんなぐあいに子供二人が、お嫁に行くなら招魂社へ行こう、しかし九段は水道橋を渡って行かなければならないから遠いわよなどと話しているのも書いてありますし、その時代の私ども一家の生活の実際がずいぶんたくさん織り込まれております。中にはまったく空想で、小説的につごうのいいように書いたところも多いようですが、事件や人物はたいがい見当がつくのが多いようです。というより、おいでになった方々から伺ったお話や、その動作や癖なんぞを、いいぐあいに取りまぜて書いたものとみえて、時々その人らしい断片がちょいちょい目に見えてくるといったほうが穏当かもしれません。そのころよく宅にいらした方々は、寺田寅彦さん。野間真綱さん、高浜虚子さん、橋口貢さん、それから野村伝四さんなどでした」。

「いったい平常はよくねむるほうで、午睡などは先からよくしておりましたが、夜も物を書く人としては早いほうでしたでしょうし、朝も学校があったせいもあるでしょうが、寝坊な私なんかよりはいつも早く目をさましておりました。とにかくそういう日常生活に対しては、これという無理もなく、規則立っていたかと思います」。

「その後訪問客もめっきりふえたので木曜日を面会日にきめまして、これは死ぬまで続きました。そのころ集まられた方々は、文章会の方々のほかに、鈴木、森田、小宮、松根などという方、それから野上豊一郎さんや、画界の橋口五葉さんなどが見えたようです」。

「(産婆を呼びに行っているうちに)もうあなた産まれそうですというので、夏目の手につかまってうんうんいってるうちに、とうとう産まれっちまいました。さあ、たいへんだと狼狽するのですが、私は当の産婦で動きもできず、夏目も取り上げ婆さんは始めてのことだから、どうしたらいいのかさっぱりわからない。ともかく悪い水が顔にかかるといけないということを私は聞かされていたことがあったので、ともかく脱脂綿で赤ん坊の顔をおさえておいてくださいと申します。よしきたとばかりに一ポンドの脱脂綿で夏目が上からおさえているのですが、それが海鼠のようにいっこう捕えどころがなく、ぷりぷり動くような動かないような、すこぶる要領を得ない動き方で気味の悪いたらない。そこへ牛込の産婆が飛びこんできて、第一私に風邪を引かしちゃならないというので、着物を着かえさせてねかせるやら、そら産湯をわかせというえらい騒ぎで、やっとのことで大役を明け渡したのですが、これには夏目も度肝をぬかれたようでした。これが四女の愛子で、女ばかりこれで四人です」。

「いったい、夏目は涙もろい質(たち)で、人の気の毒な話などにはすぐに同情してしまうほうでしたし、また頼まれれば欲得を離れて、かなり骨折って何かとめんどうを見る質の人でした。・・・後では冷たい、理知的な、物を離れて眺めてだけいる人のようにとられもしたようですが、元来ずいぶんと情深い情味の厚い人だったように思われます。それに何よりも人との関係で気のつくのは、おそろしく几帳面なことでございました。だから約束なんかはほんとうに堅いものでした。そのかわり人がそれを破ったりするようなことがあると、一ぺんにその人に対する信用をなくするというような傾きもありました」。

「『虞美人草』を書きかけている最中、総理大臣の西園寺さんが、有名な文士を招じて、一夕の雅宴を開くという例の雨声会の招待が夏目のところにも参りました。こんなことはめんどうくさいほうの夏目は、すぐにはがきにお断わりの句を書きました。それは、時鳥(ほととぎす)厠(かはや)半(なかば)に出かねたり というのですが、・・・夏目にしてみれば、時の宰相に招ばれたからといって、それをいっぱし名誉か何かのように心得てる方々がおもしろくもなかったではありましょうが、何はともあれ第一番にめんどうくさかったに違いありますまい」。

漱石の抑うつ気分といらいら感を特徴とする「神経衰弱」という病気は、現在の医学用語では「持続性抑うつ障害」と表記される。

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